えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

意志が英知界にあると人を教育することができなくなる Herbart (1804)

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  • Herbart, J. F. (1804). "Über die ästhetische Darstellung der Welt als das Hauptgeschäft der Erziehung", SW I: 259–274.
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 教育には色々な課題がありうるが、教育学の仕事が一つの全体として捉えられるべきなら、教育の主たる課題は一つでなければならない。その課題が道徳性であることは論をまたない。
 
 道徳性と言うと、人はカントが想定するような善い意志のことを考える。だが、この考え方は教師には全く役に立たない。というのも、善い意志は経験を超えた英知界から出てくることになっているので、教師には善い意志がなぜ・どうして生徒の中に生じるのかが全く分からない。そこで教師ができることと言えばせいぜい、善い意志が出てくるのを見守るだけということになる。こうしたことをまじめに推奨する哲学者もいるが、これは教師の仕事をほとんど放棄するに等しい。
 
 結局、以上のような考え方は教育には全く応用できないのだ(むしろ将来的には、「教育は可能でなければならない」を要請とする超越論的哲学によって、教師独自の領域が確保されてしかるべきである)。教師にとって問題なのは、あくまで生徒に生じる自然の出来事、現象としての意志である。
 
 人が完全に確かな意志を持っている場合には、その人が特定の精神状態になると必ずその意志が生じてくる。これは、物質界においてあらゆる原因と結果が法則的に結びつきあっているのと同じである。そこで教師は、天文学者のように、現象の法則性を見つけ出して、そしてその法則を利用して現象を計画的に変化させようとする。そのようにして、善は選ぶべきで悪は避けるべきものだと自ら理解するように生徒を高めること、これが教師の課題である。

 ここで、道徳性という概念をあらためて分析してみよう。この分析についてはカントが的確であり、道徳性とは善い意志に宿るもので、善い意志というのは自ら命令を発し自ら服従する意志のことである(※ただし、あくまで現象としての意志の話である)。

 だが真に難しいのは、意志はいったい何を命令するのかという点だ。これについては誰もが答えに窮する。ここから分かることは、そもそも道徳性という概念にははっきりとした命令の内容は含まれていないということだ。しかし、人を導くためには、あらゆる欲望や性向に対して普遍的な命令を下すような、そういう意志が存在するのでなくてはならない。

 そのような命令する意志とはどんなものか、さらに探究してみよう。まず指摘できるのは、命令する意志が「道徳的」と呼ばれるのは、それが欲望や性向と関係する(それに命令する)からに他ならない。これは逆に言うと、命令する意志それ自体は道徳的なものではないということであり、従ってこの意志の出どころは道徳ではない領域に求めなくてはならない。

 第二に、そのような命令する意志は、一つの普遍的な概念でもって、善と悪をきっぱり分けるようなものでなくてはならない。そうするとここには理性が関与していると考えざるをえない。

 ここから、意志の命令の基礎には理性があるのだと考えられる。この考えは、善い意志は服従する意志だという上記の点からみても適当である。というのも、もし意志の命令の基礎に意志そのものがある場合、これは権力者がとくに理由もなく自分の好きなように命令を発しているようなもので、「服従」という要素がなくなってしまう。一方で、理性が見いだす何らかの必然性をもとに命令が下される場合、このようなことは起こらない。

 だが、ここでいう必然性とはどのようなものか。一口に必然性と言っても、「そうすべきである」(Sollen)と「そうでしかありえない」(Müssen)を区別することができる。今問題となっている必然性は前者だ。ここから、後者に属する必然性(論理的必然性など)は命令の基礎となる必然性ではないことがわかる。そして前者に属する必然性の中でも、道徳的必然性も命令の基礎となるような必然性ではない。なぜなら既に述べたように、命令する意志のそれ自体の出どころは道徳の外側にあると考えられるからだ。

 そうすると、命令の基礎として残っているのは美的必然性しかない。