えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

時間経過の経験なんてないのでは? Frischhut (2015)

http://link.springer.com/article/10.1007%2Fs11245-013-9211-x

  • Frischhut, A. (2015). What experience cannot teach us about time? Topoi, 34: 143−155.

時間流れるよ派の人は、次のような議論をすることがある。

【経験からの論証(AfE)】

  • 1. われわれはいつも時間を流れているものとして経験している
  • 2. こうした経験は、時間が実際に流れていることによって最も良く説明される
  • 3. 従って、時間は流れている

時間流れないよ派の人はこれに対して2を否定することが多い。だがそもそも1.がおかしいのではないだろうか。通常、人は変化を経験することによって時間経過を経験できると思われるため、1.が正しいのは明らかだと思われるかもしれない。だがこの主張には3つの前提がある。

  • (a) 変化は経験できる
  • (b) 変化は時間経過を含意する
  • (c) pがqを含意するなら、pの経験はqの経験を含意する

これはどれも異論の余地のある前提であり、とりわけ問題なのが(b)である。形而上学的に言って、変化とは同一の対象aがt1ではF、t2ではGである(※FとGは両立しない)ということだ。だがこれは時間の流れの有無にかんして中立的である。もし時間が流れているならこの変化は時制化されており(A変化)、流れていないならされていない(B変化)。従って変化それ自体は時間経過を含意しないのである。私たちが変化を経験しようとも、そのことは時間の流れについては何も言わない。

このように、変化の経験の「内容」が「F(a) at t1 & F(a) at t2」という時間の流れに中立なものであったとしても、しかし経験の「現象的性格」のほうには何かダイナミックなところがあるのではないだろうか。たしかに弱い表象説が正しいならそういうことは可能だ。だが弱い表象説の下では現象的性格は表象的特徴を持たないので、この経験が変化や時間の本性について教えてくれることは何も無い。
仮に弱い表象説をとりつつ、経験の現象的性格は経験内容と「マッチ」するように進化的になっているとしよう。だが、A変化の経験とB変化の経験は現象的に違うということを示すよい議論がない限り、自分の変化経験がA変化の経験なのかB変化の経験なのかはわからない。

また、次のような議論により時間経過を擁護する人がいる。

【現前性からの論証(AfP)】
(I) 私たちは出来事をA理論的に現前するものとして経験する。
(II) この経験は、何かがA-現在にあるということによって最も良く説明される
(III) 従って、何かがA−現在にある
(IV) 何かがA-現在にあるのは、時間が流れている場合に限る
(V) 時間は流れている

だがこの議論は次の3点で批判できる

  • i.

知覚経験の内部でA-現前性をその他の何かと対比させることはできない。このため、私たちには何かがA-現在にあるとはどういうことかを理解できない。

  • ii.

iを受けて、知覚経験は想像的経験と比べて鮮やかであると言う点に訴えても無駄である。何かが鮮やかに経験されることはそれがB-現在にあるということでも十分に説明できるため、鮮やかさがA-現在によってこそ説明されるべきだという議論が必要である。

  • iii.

時制化された命題(「サイがあくびをしている」)によって最も良く表現される内容をもつ知覚はA現前性を表象していると考える人がいる。だが、時制化された命題が時制化された真理メーカーをもつと考える必要はない。