えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

しなければならなさについて Williams (1981)

Moral Luck: Philosophical Papers 1973?1980 (Cambridge Paperback Library)

Moral Luck: Philosophical Papers 1973?1980 (Cambridge Paperback Library)

  • Williams, B. (1981). Moral Luck. Cambridge University Press.

Ch. 10. Practical Necessity

【要約】
 私たちは熟慮の末に何かをしなければならない[must]と思う。「すべき[ought]こと」をしないことは出来るが、「しなければならないこと」をしないことはできない。つまり、「しなければならない」という「実践的必然性」は、他の選択肢を選べないという不可能性と関係しているのだ。この不可能性は行為者にとって真の意味での不可能性、本人の「性格から来る不可能性」[incapacity of character]である。私たちは何かを選べて何を選べない。これが熟慮する際の選択肢の限界を定める。そしてその範囲内で何を選ぶかが本人の性格を示す。ただし、熟慮によって熟慮の限界を引き直すこともできるのだから、その人の性格によって何が可能になるかが決まる側面もある。なので、実践的必然性に従った行為はその人の性格を反映した行為であり、そうであるがゆえにその行為は責任と深く結びついている。

【用語系】
「べき」[Ought] …… 最善性 …… 他行為可能
「ねばらならい」[Must] …… 唯一性 …… 他行為不可能 ...... 実践的必然性

  • [1] 自分が何をしなければならないか[must]を考えている人と、自分がしなければならないことにかんする理解によって統制されているカント的な道徳的行為者、これらには共通点がある。
    • 熟慮における「実践的必然性」という概念を共有している
  • [2] この概念に着目するために、まず「べき」[ought] 概念から始めよう
    • 「べき」は熟慮の帰結を表現するときに用いることが出来る
      • 全てを考慮した上での適切な行為を表現
  • [3] この熟慮的「べき」は「実践的」だと言える
      • 行為に関わり、その行為は実際に可能である(ought implies can)
  • [4] 熟慮的「べき」は、道徳的義務とは特に関係がない。
    • 関係する時でも、Xヘの道徳的義務は「Xすべき」を含意しない。例えば両立不可能なYへの道徳的義務があるかもしれない。
  • [5] 熟慮的「べき」には二人称・三人称的な使い方があり、議論やアドバイスの局面で相手にとって理にかなったことを示す。
    • 問題となる人物の企図や動機に対する「相対性」 …… 問題の人物の企図、動機等について助言者が間違っている時、「君はXすべき」という言明は撤回されなければならない。
  • [6] 「べき」と「しなければならない」の関係は、「最善」と「唯一」の関係と類比的である。
    • 「YしたいならXすべき」と言う際のポイントは、「もしYしたいならXが最善の手段だ」という点にある。Xが「唯一の」手段のばあい、「YしたいならXしなければならない」となる。
  • [7] 「Xしたい」[X]と「XしたいならYしなければならない」[□X→Y]からは、「Yしなければならない」[□Y]は出てこない。前提「Xしなければならない」[□X]が要る。
    • 一人称的に言うと、「私はYしなければならない」と結論する人は、「ある目標XにとってYが唯一の手段であると考えており、しかもY以外のことは出来ない[つまりXしなければならない(?)]」、と考えているのである。
  • [8] しかし、他の選択肢が「文字通り」不可能なことはほとんどない。ふつう熟慮では、選択肢はコストや道徳的考慮などの制約から絞られ、「最善の」行為が選ばれ、それが「しなければならないこと」になるように思われる。
    • 熟慮がこのようなものなら、全ての熟慮的「べき」が「しなければならない」になるはず。しかしそうではない。〔後者の特殊性はどこにあるのか。〕
  • [9] つまらない回答:〔「べき」は最善の道を示すが、それが〕「しなければならない」のは、その道が他の選択肢に比べて圧倒的によい場合に限る
    • 一定の目標や制約が単に前提された上で、それに照らすとある道が明らかにそして圧倒的によい場合、こうした答えが正しい場合もある。
    • しかし一般的には誤りである。〔mustが示す〕 必然性は確実性(=明らかさ)や決定的であること(=圧倒的よさ)とは別物だからだ。
  • [10] さらに最も重要なことだが、実践的必然性が本当に問題なところでは、目標や制約は単なる前提ではない。それ自身が必然性を帯びるのである。
  • [11] ここでのポイントは、ヤクザのぺてんに満ちた語りを考えるとわかる。
    • 「オタクがその気なら、ウチとしてもこうするしかない[no alternative]ですねぇ……」
      • この発言は、その行為が単に「最善だ」と言うのとは違うポイントをついており、選択の不可能性に訴えている。
  • [12] いかなる「必然性」概念にも、かならず対応する「不可能性」がある。
    • だが、どちらが先に出てくるのが自然かに応じて、必然性が思考の構造の中に入ってくる方法は二つある。
      • 〔【必然性が先】〕 Xがとても重要なので、それをしなければならない。従って他のことは不可能。
      • 〔【不可能性が先】〕 YもZも不可能である。従ってXしなければならない。
  • [13] このように思考の構造を表現することは、何か狭い意味での「道徳的必然性」に特殊なものは無いことを示唆する。
    • 制約の中には道徳的なものもある〔だけ〕。
  • [14] 何かを「しなければならない」時、他の選択肢は「できない」[cannot]。
    • ここで「できない」の意味を「文字通りできない」と「熟慮の上での却下」に分け〔、ここで問題となる後者は真の意味での「できない」ではないと主張されるかもしれない〕。しかしどうしてそう言う必要があるのか。というのは、今問題の「できなさ」も、〔「文字通りのできなさ」と共通の〕次の中心的特徴をもつ。
    • 【行為の予測的含意a】「あることができないと行為者が正しく考えている場合、行為者は([18]の制限の下で)それをしない」
  • [15] この特徴は、必然性ではなく実践的受容に関係していると思われるかもしれない。
    • 【行為の予測的含意b】「行為者が、実践的な意味で、自分はXすべきだと受け入れるならば、行為者は一般的にはXする」
      • しかしこう思われるのは、人はふつう理由があると思われる行為をするからであり、「べき」にこの含意があるからではない。
      • 「AはXすべきだ」という助言は、Aの行為に関する予測的含意を明らかに持たない。AがX以外のことをしたなら、助言者は「AはXすべきだった」と言って元の立場を維持できる。
  • [16] 〔従って「べき」は「できない」の中心的な特徴である[a]をもたない〕。一方で、「すべき」における「すべきだった」に対応するものは「しなければならない」には無い。
      • このことは、実践的必然性に関連する「できない」は、「文字通りできない」とは意味が違うという訳でもないことを示唆する。ここでは一定の不可能性が本当に導入されている。
  • [17] 熟慮において何かが「できない」と結論される時、なんらかの不可能性が認識されている。
    • ある選択肢を真剣なものととれない
    • 選択肢にはなるが選ぶことができない
    • 選択肢にあげることができない(これは観察者のほうがよくわかる)
  • [18] ここで【行為の予測的含意a】には意図性の制限を付け、次のように改められる
  • 【行為の予測的含意b】 行為者がXする能力を持たない時、行為者は意図的にはXしない
  • [19] もし、今問題の不可能性と「文字通りできない」を区別するポイントがあるとするならそれはここにある。Xが「文字通りできない」なら、行為者は「非意図的」にすらXできない。
    • 今我々が問題にしている不可能性は、「性格から来る不可能性」[incapacities of character] だと言える。
  • [20] 「しようとすること」[trying] の観点からみると、この種の不可能性と物理的不可能性の間にはさらなる非対称があると思われるかもしれない。
    • [i] Xするのが物理的に不可能な場合、「Xしようとすると失敗する」が帰結する。[ii] 一方、性格から来る不可能性の場合はそうではない。
    • しかし、[i] の推論は出来ない。というのは、Xが物理的に不可能な場合、「しようとする」と言うべきものが何も無い場合が多くあるからだ。
  • [21] 我々に可能なことが、熟慮の限界を画定する。そしてその範囲内で我々が何を選ぶかを示すのが、性格である。しかし性格は同時に、限界がどこに引かれているかや、「私たちは(しばしば熟慮を通して)どの行為が不可能でどの行為をしなければならないかを決定できる」という事実をも証す。
    • 不可能性は性格の限界を描きその条件を用意するが、同時に性格の実質的な一部でもある。
  • [22] 熟慮における実践的必然性の問いに結論を下すことは、自分がどういう人間なのかを発見することである。
    • 何かをしなければならない。ここに関連する不可能性は、行為者本人の性格を構成している。そして人が責任を持てる行為があるなら、その人自身のあり方をうつしだした[out of character]このような行為こそがまさにそれである。
  • [23] 実践的に必然な結論は自己の発見だが、その発見を導く思考のほとんどは自分自身ではなく世界や周囲の状況についての思考である。
    • 実践的必然性を認識することは、自分の能力・無能力と同時に、世界が何を許すかを理解することなのだ。自己にとって単に外的でもなければ完全に意志の産物でもないこの限界こそが、実践的必然な決定に権威・尊さをあたえる。自ら命を絶つアイアスの「私が行かなければならない道を往くのだ」という言葉に。