えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

動機にかんするヒューム主義 スミス (1994) [2006]

道徳の中心問題

道徳の中心問題

  • スミス・M (1994)[2006] 『道徳の中心問題』

第3章 外在主義者の挑戦
第4章 動機づけに関するヒューム主義の理論 ←いまここ

 動機に関するヒューム主義には、強いテーゼ(P1)とそれが含意する弱いテーゼ(P2)があります。反ヒューム主義者はみな(P1)を退けますが、(P2)に関しては賛否両論です(1節)。

  • (P1)時刻tにおいてRが行為者Aのφする動機づけ理由を構成するのは、適切に関係づけられた次のような欲求と信念とが、すなわち、ψしたいというAの欲求と『自分がφすればψすることになるだろう」という信念とが、時刻tにおいてRを構成するようなψが存在する場合であり、かつその場合に限る。
  • (P2)時刻tにおいて行為者Aがφする動機づけ理由を持つのは、時刻tにおいてAがφしたいと欲求し、かつ「自分がφすればψすることになるだろう」という信じているようなψが存在する場合に限る。

 まずスミスは、これらの主張が動機づけ理由にかかわるもので規範理由に関わるものではない点に注意を促します(2節)。この区別を怠った点で、ネーゲルがヒューム主義に対して加えた反論は失敗しています(3節)。またスミスは、「ヒューム主義か否か」という論点は「理由による説明が因果的か否か」という論点とは独立であることを指摘します。これをふまえてスミスがとる戦略は、「動機づけが目的の追求であるという点を理解可能にするのはヒューム主義しか無い」という点に訴えるものです(4節)。

 このことを示すために、欲求論の検討がはじまります。欲求を感覚のようにその現象的性質から定義する見解がありますが、これは(1)欲求の自己知が不可謬になってしまうし、(2)欲求が命題内容を持つことを説明できない、という点で批判されます(5節)。この代わりに、欲求を機能的役割によって定義する傾向性説が採用されます。欲求の機能は、「適合の方向」に訴え信念と対比させる形で定式化されます(6節)。

 以上の欲求論をふまえてスミスは次の議論を提示します。

  • (a)動機づけ理由を持っているということは、何よりもまず、目標を持っているということである
  • (b)目標を持っているということは、世界がそれに適合しなけれならない状態にあるということである。
  • (c)世界がそれに適合しなければならない状態にあるということは、欲求するということである。

ここで反ヒューム主義者は、道徳的信念はが両方の適合方向を持つ信求(Besire; Altham. 1986)のようなものだという見解に訴え(c)に反論するかもしれません。もしそのような単一の状態が存在するならば認知的要素と動機的要素の乖離はおこらないはずですが、これは判断は正常だが動機が萎えている「鬱的状態」(Stoker, 1979)が存在するという経験的事実と整合しません。マクダウェルは有徳な人では二つの要素は分離しないと論じました。しかしその場合、「かつて有徳だったが意志が弱くなった人」はその動機の減衰に対応し「かつて知っていたことを忘れた」と言わなければなりません。これは明らかにおかしい。マクダウェルはさらにテクニカルな対応を用意していますが苦しいものです(7節)。


 ここまでの3章により、道徳の中心問題に対する標準的な三つの回答、表出主義、外在主義、反ヒューム主義、が退けられました(8節)。