えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

水産生物学と政治 Hubbard (2014)

http://www.jstor.org/stable/10.1086/676566
Focus: Knowing the Ocean: A Role for the History of Science (ISIS, Vol. 105, No. 2, June 2014)

 海洋学がグローバルで帝国主義的な関心から生じたのに対し、水産生物学はローカルな政治経済的関心から生まれた。しかし水産生物学の格律「持続可能な漁業」は、20世紀後半以降の魚資源大規模減少により有効性を失った。どうしてこうなった? 本論文は水産生物学が政治・経済・環境にかんする理念の変化にどう影響されてきたかを明らかにする。

漁業問題に対する応用科学:1850-1900

 19世紀、人口増加や蒸気機関と鉄道による市場拡大、そして低コストで無差別的に魚を捕獲できるトロール船とヤナの急増によって論争が生じた。大西洋沿岸の竿釣りの漁師は、新しい漁法が個体群を減少させていると抗議したのだ。

 乱獲を調査した最初の科学者はハクスリーであり、彼は様々な委員会で「魚の総量は減少してない」「重要な水産は無尽蔵だ」と主張した。しかし近年の分析によると、彼は運送業者や売買人の証言を重視し漁師の証言を軽視していた。ハクスリーの見解は、その偏見に無自覚なまま後世に強く影響し、水産生物学は伝統漁業の科学的な近代化・資本化という「補助的」目標を強調するようになった(第一目標は、水産の保存・保持を可能にする知識の獲得である)。収穫量の減少を認めつつその原因は獰猛なアミキリにある、と政治・経済・科学的に巧みな主張をしたBaird, S. F.は、政府出資の委員会を立ち上げ、漁業制限よりも養殖を重視した。また蒸気浚渫機がカキのすみかを壊した1850年代以降、科学者達はカキ漁場を私営化すべきだと主張した。

 漁師による様々な巧みな制限下にあった海洋資源は、今や「共有地の悲劇」に晒された。そして生じた水生生物数の変動・減少という不確実性を利用し、水産生物学者は漁業政策の提言などによって資金を獲得した。だがこの「科学的」政策は、科学者自身の経済・政治観に象られていた。さらに、領海画定や国家利益の促進・保持に役立つという主張により、水産生物学は国家的な政策目標にも影響を与えた。合理的で科学的な資源管理の採用は国家の政治的名声を向上させるとともに、公海における漁業の産業化も政策目標となっていった。かくして水産生物学は、1900年付近には公的資金を得る独立の分野となった。 

1900年以降:水産生物学への公的支援の政治的帰結

 各国が支援した様々な研究所は、技術・目的・理念などを共有していた。初期の争点は魚数の変動・減少の原因は乱獲か否かにあったが、著名な水産生物学者Johan Hjortは人口統計の手法を応用し、個体群変動の原因を繁殖の成功率の年毎の差異に求めた。これは「漁場は無尽蔵」テーゼの信用度を高めた。深海調査の必要性から各国が出資した「海洋探査国際委員会」はHjortを支持すると共に、様々な個体群分析手法を普及させた(標識放流法や魚齢測定用スケール)。こうした国際的委員会は、出資を求めるロビー活動の拠点となり、また政治的目標にも寄与しだした。多くの漁業が国際水域で行われたことから乱獲は国際的課題となっていたが、科学者は政治家や官僚と並び最前線で交渉を行うようになったのだ。

 工業化諸国の「近代化」という理念は水産生物学に2つの帰結をもたらした。まず、水産生物学は産業化された漁業を支持するものになった。次に水産生物学の第一の理念は、20-30年代にはドイツ科学的林業の「成功」の影響を強く被り、そこから転用された「最大持続可能生産量」(MSY)の理念にそった水産管理が水産科学の原理となっていく。

最大持続可能生産量、人口モデル、アメリカ冷戦期の政策目標

 MSYは人間の利益にかかわる経済的理念であり、魚個体群保持とは殆ど関係がない。しかし、偶然同時期に導入された個体群の分析法は、経済的目的を持たない個体群生態学の個体群方程式やモデルの影響下にあった。そしてMSYはこの新しい手法と同一視され、MSYのもとで水産生物学の補助的理念と第一理念が結びつくことになった。

 戦後には最新データからのMSY予測が水産生物学の目標となる。戦中の漁業縮小により魚資源が増加したため、魚はすぐ回復し簡単に調節できる資源だと科学者は考えた。そんな中、Chapman, W. M. が米国務省を促し設立された国際委員会や、Herrington, W. C. が主導した国際会議は、MSYと「抑止原則」を国際的に普及させた。「抑止原則」とは、ある国家が科学的に水産を管理している際に他国が競合するのを禁じるもので、諸国に水産の科学的管理を促す。これらの理念は、乱獲の科学的証拠が無いかぎり漁業制限を認めない点が批判対象になったが、結局国際的に認められた。このようにして水産生物学は、自由・民主的・資本主義的・自由市場的システムの優越性を示そうとしたアメリカ冷戦期の政策を実現する道具と化した。産業化された大規模漁業が水産管理に致命傷を与えるということに科学者は気づけなかった。政治的に作られた<近代化の支持者としての水産生物学>という規定に目隠しされていたのだ。

 海は無尽蔵だというハクスリーの考えは経済学者によって強化された。ハクスリーの影響を受けたGordon, S. らは、魚資源の状態には考慮せず、乱獲を単に収益率が低い状態と解釈した。その結果、MSYは人間の利益にかかわるものへと意味を変える。漁業を経済学の文脈におき投資として理解する彼らの理論は、深海水産の問題にネオリベラル的・民営化的解決法を導入した。経済学者の介入は、60年代には水産生物学者の専門家としての地位の低下させた。そして70年代には漁師と漁師共同体にとっての社会的利益を最適化する「最適持続生産量」が求められ、またも水産生物学は水産の保持という第一目的から逸脱していく。


 経済学者は、水産生物学者が「第一目標」にとらわれ過ぎだと批判した。しかし、水産生物学者自身も、「補助的目標」を強調してきたのだった。だから水産生物学は経済学を受け入れられたのだ。水産生物学は自らの歴史をよく分かっておらず、このことが第一目標たる水産の保持〔を妨げている〕。環境問題に対する「常識的」「理性的」解決が文化的・政治的背景を持つことに気づけなかったし、近年の魚資源減少を前に水産生物学は失敗した科学とされ政府の支援を減らされてしまっている。基礎研究や漁師との関係など多くの点で水産生物学の魚保持の試みはまだ始まったばかりであり、政府の継続的支援の獲得や商用個体群の保持の価値を公共善として高く設定してくことなどが必要だ。