えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

【短い版】ヴィクトリア朝時代初期のポピュラーサイエンス O’Connor (2007)

The Earth on Show: Fossils and the Poetics of Popular Science, 1802-1856

The Earth on Show: Fossils and the Poetics of Popular Science, 1802-1856

ポピュラーサイエンス

1832年、宗派の障壁を超えて中流〜上流階級人々を統一する文化的リソースとして科学を用いようとした英国科学振興協会(BAAS)の会長になったバックランドは、大衆の関心を魅くべく外連味たっぷりの講義をオックスフォードで行いました。一方で地方でも、地元のソサイエティが各地の地質学実践の基盤となっていました。これらの組織の活動は、科学的な定期公刊物に眼を付けた出版業界を潤していきます。
 そのなかで発売されたポピュラー著作は、旅行記、自然史概説、聖書研究、自然神学的論稿といった形をとり、小説との対比、巨大な怪物の描写、民間伝承との類比、詩の引用、過去の活写など、古い手法がまだ使われていました。しかしこうした技法は20年の地質学論稿には殆ど見えないものでした。30年代に新しい科学として地質学を構想したジェントルマン達も、またポピュラー著作家達も、読者の「教育」の必要性を強く感じており、この大衆教育の必要性が、レトリックの使用を増加させたのです。

様々な地球史

 30年代の地質学はとても統一的なものではありませんでした。一方の極にいる聖書直解主義者は、聖書の科学的権威を否定する「古い地球」の科学を無視できなくなっており、新しい地質学側の聖職者やBAASに強い非難を浴びせかけていました。他方の極には、前進主義(地球の変異に方向性があるとする説)を種の変異の理論の基盤とするもの達がいます。有名なのは44年にチェンバーズが書き匿名出版された『創造の自然史の痕跡』です。チェンバーズは素人なのに様々な自然科学から大理論を作り上げ、直解主義者もジェントルマンの著作へ参照を行わないなどの行為を行いました。これは専門家への敬意を要求する新しい科学的権威モデルへの挑戦でもありました。
 これら両極の主張は大衆の注目を集めます。そして大衆の人気を保つべく、両陣営は科学のイメージ喚起力を利用しました。例えば『痕跡』の出だし「我々の住む地球……」は、マンテルの『地質学のふしぎ』で喚起され、ド・ラ・ビーチの『理論地質学』で絵画的に示されたイメージの上に成立していました。
  またあまり認識されていませんが、直解主義側もイメージ技法を使用しています。ポピュラー著作は創造の6日間を枠組みとし、新旧の詩を引きつつ様々な逸話が語られるとともに、様々な挿絵を含んでいました。より論争的著作でも視覚的レトリックは見られ、例えばW・エルフ・テイラーの著作には論敵たるミラーから剽窃した版画が載っています。盗んでばかりではなく、例えば、創造を「パノラマ」として描く技法や、『ガリバー旅行記』により太古の植物の巨大さを喚起する技法は、普通は40年代のミラーに結びつけられるものですが、10年早く直解主義側のシャロン・ターナーが用いたものなのです。ミラーも30年代の直解主義による大衆化に縛られていたのでしょう。
 どの派閥も絵画的レトリックを重視したこの混乱の決着は、大衆の想像力に委ねられていました。スペクタクルの時代です。論敵への攻撃は、大衆の注目を魅くべく慎重に選ばれました。とくに特定宗派のジャーナルが急成長した以降では、定期刊行物の編集者と購買者に多くが懸かっており、編集者は読者を誘導するために巧みな戦略を用いました。
 しかし、一定の立場を決めるのが遅かった刊行物、両派の違いに特にこだわらない著述家もおり、<この論争は「最も教育を受けた人」の間ではヴィクトリア時代初期に既に決しており、直解主義は周辺に留まった>などとは言えません。地質学に関する世俗的な合意は、聖書直解主義と『痕跡』のような急進派に対し2正面作戦を張った科学のジェントルマン達によって、新しい科学的権威のモデルとともに、まさに構築中だったです。