えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

エティエンヌ=ジュール・マレーのアナクロな博物学精神 松浦 (2001)

表象と倒錯―エティエンヌ=ジュール・マレー

表象と倒錯―エティエンヌ=ジュール・マレー

  • 松浦寿輝 (2001), 『表象と倒錯―エティエンヌ=ジュール・マレー』 (筑摩書房)

 写真ではなく科学史的関心からよんだのでI−2と3が面白かったです。

 クロノフォトグラフ(こういうやつ)で有名なエティエンヌ=ジュール・マレーの科学的方法論は独特です。一方で、「実験」は生命の内部に人為的介入を行うことで生命の自然な実態から乖離するのでダメ。他方で「観察」に関しては人間の感覚器官は全く信頼できない−−特に、マレーの対象である「運動」に関しては−−のでダメ。そこで用いられたのが「図表」そして後には「写真」で、これにより生命の内部に介入せずしかも知覚では捉えきれない運動の記録が可能になりました(I−2)。

 この「実験」批判は、同時代的文脈においてはクロード・ベルナールに向けられており、ダゴニェはこの対立を「反生気論 vs 生気論」の図式で捉えようとしました。これに対し筆者は2つの問題を提起します。まず、ベルナールに生気論的側面があるにせよそれは細部の話にすぎず、むしろ実験による「内部」への介入を極端に恐れるマレーの方がかえって内部の生命を特権化・神秘化しているようにみえるというのが一点です。

 第2にそれ以前の問題として、そもそもマレーには「生命とは何か」という問題構成はないのであり、ベルナール批判はベルナールの「生気論的」側面に向けられた訳ではないと筆者は述べます。マレーは実験による生体内部への「侵入」を嫌いましたが、かといって「生命は外部(環境)にある」などという生命論を主張する訳ではないのです。マレーにとって重要だったのは、外部にとどまって生体外部と内部の閾をまなざすことでしたーーそして外観の可視的特徴を記述するこの視線は博物学の精神なのです。フーコーによれば、「(生気論によって)「生命」を問題化しその解明のために内部に侵入する(解剖)」生物学の近代はキュビエによって準備されました。しかしマレーは、生命の問題以前、表象を知の原理とする古典主義時代に留まっているのです。

 しかしマレーを「近代性の時代」に狂い咲いた博物学者として簡単に位置づけられるかというと話は単純ではない。マレーの図表と写真は、あまりに正確であるがゆえにかえって不自然であり、対象である運動の透明な表象になっていないからです(I−3)。筆者はここに「イメージ」という、言語(翻訳)をモデルとしない記号の登場(あるいは、近代的な意味での「イメージ」の誕生)をみようとしています(II−1)。