えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

キュビエ、科学の大衆化、フランス文学 荒原 (2008)

エピステモロジーの現在

エピステモロジーの現在

  • 金森修編 (2008) 『エピステモロジーの現在』 (慶応義塾大学出版会)

第八章 高橋厚  「「自然の作品は知性の作品である」ーー中世アリストテレス主義自然哲学における『生成』の論理」
第九章 荒原由紀子 「地質学と起源の夢想−−一九世紀フランスにおける文学と科学」 ←いまここ

  19世紀における「科学の大衆化運動」が文学に与えた影響を考察する論考です。分析対象となるのはフローベールの『ブヴァールとペキュシェ Bouvard et Pécuchet』第三部、主人公の2人がベルトランの『書簡』とキュビエの『地球の革命の理論』を読み、地球史を描いた4つの「タブロー」を夢想する、という場面です。
  夢想の各光景にはキュビエの激変説の影響が伺われます。しかし著者は草稿を調べ、記述の源泉はキュビエの原典の方ではなく、それを一般向けに解説した書簡体の啓蒙書であるベルトランの『地球の革命ついての書簡』の方であることを突き止めます。アレクサンドル=ジャック=フランソワ・ベルトランは、当時「科学啓蒙作家 Vulgarisateur」と呼ばれた一人であり、『グローブ Le Globe』紙上でフランス初の科学学芸欄を担当した、「科学の大衆化」における重要人物です。
  さらに草稿からは、地球史は当初は化石動物の名前の羅列で表現されていたのが、途中からより視覚的な「タブロー」表現が採用されたこと、そして、この「タブロー」とは「絵」ではなく「場」であることが示されます。つまりここでは、当時流行の、舞台による地球の歴史の再現や「科学夢幻劇」といったスペクタクルが念頭におかれていたのです。
  さらに草稿には、キュビエの科学は「宗教のようにまばゆく」「数学のように精確」という礼賛が残されています。この表現は、キュビエの非連続的な地球の科学がキリスト教的な宇宙の起源の物語を受け継いでいるという、19世紀に紋切り型となったイメージを反映するものでした。大型脊椎動物の復元という視覚性、そしてキリスト教の説話を踏襲する物語性、キュビエの科学的仕事のもつこうした属性は一般大衆による受容を容易にし、このイメージは科学の大衆化運動の中で拡散されていったのです。実際、同じようなキュビエへの言及が例えばバルザックの『あら皮 la Peau de chagrin』にも見られます。
  さらに、同時期には大衆化運動を受けて、地質学が物語全体の主題となる「地質学小説」というべきものも現れます(サンドの『ローラ Laura』やヴェルヌの『地底旅行』)。これらとフローベールやバルザックのテキストの重要な共通点として、地球の歴史が「夢想」という様相で現れるという点があります。前者における地球史の夢想は、そこで参照されていたスペクタクル装置に入り込んでしまったかのような小説である『ローラ』や『地底旅行』に現実化するのです。
  科学の大衆化運動が文学に与えた影響として、「啓蒙書からの引用」、「スペクタクル装置への参照」、「キュビエのイメージの反復」の要素が浮かび上がりました。しかし同時に、文学が科学の言説を摂取するのは、それが抱える科学ならざるものに作家が着目するからです。19世紀の地質学的言説の場合、それが解明しようとする「世界の起源」と宗教や物語との深い結びつきが、作家達に壮大な夢を編み出させたのではないかと、著者は示唆します。