えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

脊髄に魂あるよ説と現在 染谷 (2013)

  • 染谷昌義 (2013) 「魂の科学としての身体論――身身問題のために」 in 佐々木正人編 『知の生態学的転回1 身体: 環境とのエンカウンター』 (東京大学出版会)

  赤ちゃんのリーチング活動から反射に至る様々な活動を調べてみると、身体はあたかも物の性質を「知っていたり」、「予期していたり」するように見えます。こうした身体に対するサイコロジカルな語りは比喩に過ぎないのでしょうか?
  エドワード・リードの『魂から心へ』によると、18世紀のロマン主義科学の時代において「魂」とは、(1)空間性があるという意味で身体的、(2)当の人間・動物が意識的に気がつかない感じをもつ意味で心的、(3)そして自覚的な意識や思考と関係する意味で<マインド性>を持つものでした。後の心理学はそれぞれを、生理学・反射学、精神分析、認知や思考の心理学の研究対象としましたが、リードは解体されてしまった「魂」の科学を切望します。それは、上記のような語りを比喩とせず、身体がまさに主体性をサイコロジカルな性質を持つことが肯定される「魂の科学としての身体論」です。
  この身体論に連なる忘れられた伝統があります。トマス・ハクスリーは「動物が自動機械であるという仮説について」(1874)で、脊髄ガエルや脊髄損傷患者が行う意識的とは見えないが巧みな反射運動を根拠に、人間の身体もまた自動機械だと考えました。ところが人間には意識があるものですから、この自動機械は、身体へ一切作用しない意識を持った自動機械なのだと結論されます。〔いわゆる随伴現象説です〕。しかし、同様の推論は逆からも成り立ちます。エデュアルト・プリューガー(1829-1910)やジョージ・ルイス(1817-70)らが考えたように、脊髄がそれほど合理的な活動をするのならば潜在的にであれ意識があるに違いない、という訳です。
  このような見解はさらに100年をさかのぼれます。ロバート・ホィット(1714-66)は反射が適応的な運動であることを根拠に、脊髄には「感覚原理」が存在すると唱えました。脊髄は感覚を感じており、そのために反射における適応的な筋肉の協調運動が作られるというわけです。さらにホィットは魂が身体全体に分散している可能性・魂の空間的延長性と分割可能性をも示唆しました。これ以降も脊髄魂説は繰り返し主張されますが、マーシャル・ホール(1790-1857)が脊髄の反射中枢のはたらきと脊髄中の感覚・運動神経のはたらきを峻別し〔反射弓の発見〕、これがミュラーの〔『人体生理学全書』1833-40〕でも取り上げられ、脊髄はもっぱら反射器官で、感覚や運動を引き起す意志作用は脳に局在するとされました。こうして反射研究や運動研究から魂の語彙は消えることになって行きました。
  脊髄魂説は時代遅れなのでしょうか? しかし反射であれ何であれ生き物の振る舞いを自動機械の運動だとみなすことにわたしたちが何かしらの抵抗感を感じることもまた事実です。この問題は、脳死者(脊髄は機能している)の身体が見せる運動(ラザロ徴候)を前にした時の私たちの困惑にも表れています。

ラザロ徴候に見られる自発運動〔……〕〔の〕複雑でなめらかなそして「人間的」(同前〔←小松 2004 『脳死・臓器移植の本当の話』 PHP新書〕、一〇七頁)とまで形容される動きに、私たちが生の証を見て取るとすれば、それが医学的、生理学的にどう説明されようと、既存の脳死定義と合致していようと、魂の残存する証を見て取っていると考えてよいはずである。〔……〕脳死者への私たちの態度は、身体が機能しているところに常に魂があると言う、脊髄魂説に通じる見方が現在の私たちにも生きている事を示していないだろうか。  pp. 228^229

〔……〕魂という概念抜きで、身体の生命特質は語られるようになっていった。あたかも自動機械説が勝利を収めたかのように思われた。しかしそれは実際にはそれは勝利ではなく無視であった。身体の生命特質と真剣に向き合うことを怠った実証科学のきまぐれだった。その証拠に、私たちは脳死者の身体の動きや機能に生命の証を見る。脊髄魂や全身に分散された魂の問題が再び私たちの目の前で息を吹き返している。  pp.261-262