えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

シェーラーの<錯誤としての感情移入> 石原 1999

http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/handle/2115/33745

  • 石原孝二 (1999), 「感情移入」と「自己移入」 : 現象学・解釈学における他者認識の理論 (2) シェーラーの他者論, 『北海道大學文學部紀要』, 48-2, pp. 1-14

  既にみたような感情移入説は、確実な内的知覚と不確実な外的知覚という二元論を前提していました。『論理学研究』第二巻のフッサールは、内的知覚も外的知覚も知覚である以上どちらも誤りうるのであり、明証性の度合いに差は無いと議論することで、こうした前提を攻撃しました。この議論は類推説の批判を意図したものではありませんでしたが、シェーラーはこの含意をとらえ、「自己認識の偶像」(1915)で「心理的対象」に関する錯誤の本質を明らかにし、感情移入をある種の「錯誤」として捉えようとします。
  シェーラーはある現象が物理的に知覚されるか心理的に知覚されるかは、対応する知覚器官の種の区別によるのではなく知覚の「仕方」の区別によるものであり、従って「私」の経験流は自分自身のみならず全ての他者の〔心理的〕体験をも包括することができると考えます(前人称的な体験の流れ)。そして「錯誤」とは「見え」を「現実」と結びつけるところに生じるものですから、「内的知覚における錯誤」とは、外・内受容的な「所与」と実際の心理過程の関係づけの誤りということになります。この錯誤には、<内容の取り違え>、<帰属先の取り違え>、<物的・心的という領域の取り違え>の三種類のものがありますが、このうち第二のものが「感情移入」に他なりません(類比説批判と言う点では、相手→自分の感情移入の方をより原初的としている点が注目されます。また、自然的対象に自己の感情を投影する感情移入美学の「感情移入」は第三の錯誤に相当します)。