えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

行為の理論から政治的義務の理論へ Gilbert [1989]

On Social Facts

On Social Facts

  • Gilbert, M [1989] On Social Fact (Princeton Univ Pr)

 集団のメンバーであることは仕事を持つことである。社会生活のなかで、初心者に文章書きを教えることを想像してほしい。集団に入るためには、その集団がどんなに小さく一時的なものであっても、人は自分の意志を、諸意志のプールあるいは和へと明け渡さなければならない。そしてこの意志のプールはそれ自身で、なんらかの(非常にひろく解された)原因に捧げられる。このことが、一揃いの責任と権利をとることあるいは受け入れることを含意する。自分のふるまいに新たな一揃いの制約があることを認識することをを含意するのである(同時に、特定の新たな権利の付与を受け入れることになる)。いままさに直接問題となっているこの権利と責任は、政治的なものでも法的なものでもない。これは「共同的」として参照されうるような、あるいはもっと馴染みのある言い方をすれば、政治的として参照されうるような権利と責任である。  p. 411

 集団に参入する人に対して自然に生じる権利と責任の深い基盤は、まさにここでの中心的な構想である複数主体という概念のうちにある(腕に強調したように、ここでは道徳的責任や法的責任が問題となっているのではない)。私が複数主体という概念をどのように分節化したかをみれば、集団のメンバーになるということが独自の責任と権利の一揃いを伴う事になるのはどのようにしてなのかが説明できるようになり、この責任や義務の本性がより明らかになる。
 まず、ある人の自分自身の目的、行為の原則などを考えて見よ。直観的に言って、この<私の目的であること>と<その目的をもたらすために十分な理由を私が持っていること>との間には論理的な靭帯がある。「私の目下の目標は、ベストセラーの料理本を書くことです」と言いつつ、しかし自分がその目標を促進する理由を持っていることを否定することは、不整合である。また、<安息日には車を運転しない>という原則を自ら受け入れていると言いつつ、安息日に車を運転しない理由があることを否定するのも不整合である。このような直観の力は次のようにまとめてよいだろう:合理的な人の意志はその担い手の目的などに可感的であると、我々は捉えている。言いかえれば、私の意図は、私の目的や原則などに可感的である。さらに別の言葉で言えば、他の条件が同じなら、私はこれこれを欲しているという私の知覚は、私の(合理的な)意志を動機づけるのに十分なのである。
 さて、私の分析では、もし複数主体が存在しているならば、〔その主体を構成する〕人々の各々は、自分の意志が、特定の(広く解釈された)原因への貢献のうちで組み合わされる、諸意志の和になることに志願していることになる。こうした諸意志は今や(所有者によっても他の人によっても)、その原因へと共同でコミットしているのだと理解される。諸意志の個々の所有者は、今はその目的などに関する複数の主体のメンバーなのである。彼らはこの目的を「我々*の目的」として参照することが出来る。
 さて、いま議論のために、〔欲求と理由間の〕論理は「私」と「我々*」で同じものだと仮定しよう。そうすると、もし我々*の目的がGだとすれば、「我々*」は我々*が出来る限り、Gを成就する十分な理由を持っていることになる。しかし、では「我々*」がそうのような理由を持つとはどういうことなのか? 答えはだ言いたい次のようなものだと仮説づけて良いと思われる:私は、「我々*」の目標を自分が出来る限り促進する責任と、その試みのなかであなたによって助けてもらえる権利を持つ。そしてあなたも同じ地位にいる。  pp. 413-414