えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

道徳の正当化(3)――帰結 マッキンタイア[1984=1993]

美徳なき時代

美徳なき時代

目次
第4章 先行の文化と、道徳の正当化という啓蒙主義の企て
第5章 なぜ啓蒙主義の企ては失敗せざるを得なかったのか
第6章 啓蒙主義の企ての失敗がもたらした諸結果 ←いまここ
第11章 アテナイでの諸徳
第12章 アリストテレスの徳論
第15章 諸徳、人生の統一性、伝統の概念

美徳なき時代
第6章 啓蒙主義の企ての失敗がもたらした諸結果

啓蒙主義の企ての失敗

啓蒙主義の失敗のあと、一方で、聖なる階層秩序と目的論から解放された個人は、道徳的に至高な存在者だと理解された。もう一方で、継承された道徳諸規則には何らかの地位を与えてやらなければならない。そこで、
・何か新しい目的論を発明する(功利主義)

・道徳規則に対する何か新しい定言的な地位を発見する(カント的企て)
かして、道徳を立証すべきという圧力が生じる。
しかし両方とも失敗したし、その過程で社会的な変化も成し遂げられている。

功利主義者たち

 ベンサムは人間本性について新たな見解を提供した。すなわち、人間の動機は快苦の二種類しかない。そしてこれが、道徳規則へ新しい地位を割り当てる。この啓蒙された新たな道徳では、最大量の快楽と苦痛の不在を見込むことがテロスである。
 ベンサム主義の幸福概念を拡張する必要性を主張した点でミルは確かに正しかったが、幸福に区別を設けた結果、「幸福という観念な一元的で単純なものではなく、選択の基準を与えることはできない」という欠点が生まれた。これでは目的論としての役割を果たせない。
 19世紀の功利主義者は自己吟味を続けていた。そのシジウィックは、道徳の基礎的信念が、異種的なものの集まりであり、論証されずに受け入れられていると結論を余儀なくされた。この時、真だという理由を与えることができないのだが抱かれている信念に対して、シジウィックはヒューエルの語を借りて「直観」と名付けた。こうした探求の結果はシジウィックを失望させた。
 一方で、ムーアはシジウィックの失敗を、啓発的で開放をもたらす発見だと解釈する。ムーアはこれを功利主義からの救出だと捉えたのだった。しかし勿論そのとき、客観性を主張するための論拠は奪われており、情緒主義を準備することになってしまっていた。
 以上のように、功利主義の歴史は、道徳の正当化という18世紀の企てと、情緒主義に陥る20世紀の衰退との間を歴史的に結び付けている。(ただし、功利主義は理論的に失敗したものの、社会に大きなしるしを残した:後述。)

カント的な企て

 明らかに道徳的推論が現に行われていることを考え、情緒主義に満足しない分析哲学者たちは、カント的な試みを復活させた。すなわち、「合理的行為者は自分の合理性という力によって道徳の諸規則に論理的にコミットしている」ということを示そうとしたのである。
 例えばゲワースは
「行為者は、自分の上首尾の行為の一般的特質を構成する自由と安寧(well-being)を必要な善と見なすゆえに、自分がこれらの一般的特質に対して権利をもっていると論理的に考えているはずである。こうして彼は暗黙のうちに、それに相当する権利要求をしているのだ」
と述べる。たしかに、行為者がある程度の自由と安寧という善を、合理的行為者としてふるまうための先要条件として認知しなければならず、それを意志しなくてはならない(「必要な善」)。しかし、ここで「権利」という概念を次に導入するのには正当化が必要である。「私には何かを行う権利がある」と「私は何かを必要としている」は、まったくタイプの異なる発言である。もし私がある特徴ゆえにある権利を要求するなら、「同じ特徴をもつ人は同じ権利をもつ」ことにコミットメントしている。しかしこの必然的な普遍化可能性は、ある善を欲したり必要としていると言う主張からは出てこないのである。
 二つの主張の違いは、権利が社会的に確立したひとそろいの規則の存在を前提しているという点にある。こうした規則は特定の社会環境・歴史的時代に現れるもので、決して人間の条件に属しているものではないのである。
 啓蒙主義の後、各々の行為者は今や神法や自然的目的論や、聖なる階層秩序という権威の外在性から拘束されることがなくなった。しかしそうすると、何故他の人はその人に耳を貸すべきだと言えるのか。この問いに、功利主義者もカント主義者も答えられていない。

諸権利・抗議・暴露

以上のことを理解すれば、諸権利・抗議・暴露という概念が近代的な道徳枠組みの中で占める位置が理解される。

諸権利

 ここでいう「諸権利」とは、今では「人権」と呼ばれる。全ての個人に等しく属し、多様な個々の道徳的立場のための根拠を与えると考えられている。
 しかし「権利」にあたる表現は、中世の終焉近くまで存在していないという奇妙な事実に注目しよう。「そのような権利など存在しないのであり、そういった権利を信じることは、魔女や一角獣を信じることと同じだ」と言える。そう言える根拠は、そうした権利が存在すると信じるための十分な理由をあたえようとする試みは、あらゆるものが失敗してきたということである。ドゥウォーキンは権利の存在が論証不可能だと認めたが、「ある言明が真でないということは、その言明が論証不可能だということからは帰結しない」と述べた。これは確かに正しいが、一角獣や魔女の存在を擁護する際にも等しくつかわれうる。従って、諸権利あるいは人権は「虚構」である。
 これに対応するもう一つの虚構は「功利性」である。この考えは「快苦の見込みを総計する」という考えを尤もらしく見せるために導入されたが、ミルらが幸福の多様性を主張したのでますます尤もらしくなくなった。
 ここで現代の道徳論争に通約不可能性が生じるのはなぜか、少し詳しく理解できる。つまり、「諸権利」は「自律的な道徳的行為者」という社会的発明の一部として特定の目的に役立つように、「功利性」は〔快楽計算という〕全く別の目的のために考案されたのである。両者の間で対立が起こった時、解決する手段がないというのは驚くにあたらない。
 ここでもう一つ重要なのは、「諸権利に基づいて主張される個人主義」と「功利性に基づいて主張される官僚制」との間に論争があるという点にかかわる。しかしここまでの議論が正しければこの論争には見かけ上の合理性しかない。この見かけの合理性のせいで、論争の決着の際に働く意志と力の恣意性が隠ぺいされている。

抗議

 「抗議」とは「ある人にとっての功利性の名において別のだれかの権利が侵害されたとの申立てに対する反応として、特徴的に生じるもの」である。抗議が甲高い自己主張になるのは、通約不可能性があるゆえに、議論では勝てないことが明らかだからである。抗議は「合理的には」効果をもちえない。

暴露

 近代の道徳的大義の主唱者たちは、実際には恣意的な意志や欲求が好んでいるものを、道徳という仮面の下に隠ぺいするのに役立つ修辞を提供している。これは新しい主張ではない。近代世界の文化的反乱のそれぞれの党派は、それぞれ特定の道徳的先駆者の恣意性を「暴いて」きたのであり、情緒主義の主張はその一般化にすぎない。暴露は近代に特徴的な活動である。

おさらい

道徳論争には果てしなさがある。この果てしなさを、ある種の情緒理論が含む真理の帰結として説明しようとしてきた。この時、情緒主義は哲学的分析としてだけではなく社会学的仮説としても扱われた。つまり、近代社会の中心的「キャラクター」は、自分たちの行動において情緒主義のあり方を体現している。このキャラクターとは「審美家」「セラピスト」「管理者」であった。そして、彼らが道徳的虚構をやりとりせざるをえないことを明らかにすることができた。では道徳的虚構には「功利性」「諸権利」の他にどのようなものがあるか。それに欺かれようとしているのはだれなのか。

審美家とセラピスト

 審美家はこれらの虚構に欺かれにくい。彼らは架空の虚構的主張を見抜くことに熟達している。己を審美家と認めたがらない点で、唯一欺かれているといえる。
 セラピストは逆に、最も欺かれやすいだけでなく、欺かれていると見られやすいキャラクターでもある。セラピーの理論には根本的な批判がなされている以上、問題はなぜセラピーの実践が何事もなかったかのように大部分継続しているか、という点にある。(これは審美家の問題と同様、単に道徳的虚構の問題ではない。)

管理者

 管理者は、上の二人とは異なり管理者独特の虚構をもっている。「効率性」である。管理者の多くは自らを道徳的に中立なキャラクターと考えている。しかし、効率性という概念全体が、人間のある存在様式〔操作的な存在様式〕と切り離すことができず、その様式の中で手段を考慮することは、中心的な部分においては迎合的な行動パターンへと人々を操作することになる。それゆえに効率性は道徳的に中立的な価値だとは言い難い。
 管理者が「私たちの」生活において権威の座を要求してくるなら、効率性を標榜する官僚的管理者の主張を査定することが重要になってくる。管理者の発言と実践の中に具体化されている効率性の概念には、<社会統制>という概念が結び付いている。われわれは「管理者の権威と力が正当化されるのは、管理者が技術と知識を一定の目的達成のために働かせる能力を所有しているからだ」という信念によって管理者の力の維持・拡張を認めているが、「効率性」という概念が「社会統制」という仮装の一部だとすればどうだろうか?〔管理者がそのような権威をもつ正当性はないはずである。〕

職人芸

管理者が持つ「効率性」という性質を指すために「職人芸」という術語を導入する。そして、「職人芸」なるものはもう一つの道徳的虚構であるという結論にたどり着く。そのためには、「職人芸」が、決して実証されえない<知識の資格要求>を前提していること、この概念の用法と意味の間に、情緒理論と同種の特徴があるということを言えば良い。
 職人芸は情緒主義者(カルナップとエイヤ―)が「神」という概念について想定したのと同じ機能をもつ。それは、架空ではあるが信じ込まれた概念で、それへ訴えることである現実が偽装されるのである。この主張がただしければ、
「情緒主義による説明は私たちの道徳的発言と実践の多くの者に当てはまり、そこで具体化されている」と
「そういった発言と実践の多くは、道徳的虚構のとりひきである」
の他にさらに、
「近来の社会的なドラマの中心的なキャラクターである官僚的管理者による、効率性とそれゆえの権威を標榜する主張においては、もう一つの道徳的虚構(職人芸)が具体化されている」
と結論づけることができる。

官僚批判へ

 管理者の効率性の主張は、組織と社会構造を形づくる手段としての蓄積された知識を所有しているというさらなる主張に基づく。この知識は、事実に関する法則的な(Law-like)一般命題を含む必要があるだろう。従ってこの主張には、二つの部分がある。
1)管理者がそれについて専門家であるところの「道徳的に中立なある事実領域」の存在にかかわる部分
2)この領域の研究から引き抜かれた法則的な一般命題とその適応にかかわる部分
 こうした主張の理解のためにはまず、いかにして「事実」なる観念が社会に適用されるようになったかを見るのがよい。この歴史は先ほどまで述べた<自律的道徳主体>誕生の歴史と大きく関係していることが明らかになるだろう。アリストテレス的な世界観を拒否することで、<事実>と<価値>という概念の性格が変化したのである。<事実>と<価値>を明白に区別する考え方の検討をまず行い、そして次に管理者の知識主張を査定する必要がある。