えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

道徳的判断における規則/推論の役割を擁護する Mallon and Nichols[2010]

The Moral Psychology Handbook

The Moral Psychology Handbook

  • 作者: John M. Doris,Fiery Cushman,Joshua D. Greene,Gilbert Harman,Daniel Kelly
  • 出版社/メーカー: Oxford Univ Pr on Demand
  • 発売日: 2010/07/06
  • メディア: ハードカバー
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  • John M. Doris, Fiery Cushman, Joshua D. Greene, Gilbert Harman, Daniel Kelly (2010) *The Moral Psychology Handbook* (Oxford University Press)

目次
Chap.4 Moral Motivation
Chap.8 Linguistics and Moral Theory
Chap.9 Rules ←いまここ
Chap.11 Character

「内的に表象された原則や規則と、個別事例がその規則に当てはまるか否かの推論によって、道徳判断がなされる」という伝統的なモデルには、最近批判が加えられている。その批判で提出される証拠を検討し、道徳心理学から規則を消去しようとする試みは支持されていないと示す。

1.道徳規則と道徳的推論

道徳判断と道徳規則を結び付ける長い伝統がある(規則功利主義・義務論……)。こうした伝統はおもに規範的な主張をなすが、関連した記述的な主張も示唆する。
→・人が実際に道徳判断を下すプロセスは、その人の規則の適用に依存する。
・ある行為が、判定者〔=裁判官〕の抱く道徳規則を侵害する場合、その行為は道徳的に許されない。
ここでは、規則は道徳的判断を導く心理的プロセスにおいて重要なファクターであること、そして、規則は心的に表象され、判断と行動産出の点で因果的役割を果たす(内在主義)という見解を擁護する。

2.規則と社会的直観

社会的直観モデル

Jonathan Haidt[2000]は、規則ベースの伝統的見解に挑戦する。道徳的真理の理解は、論理的思考や反省のプロセスによって生じるものではなく、むしろ、より知覚に近いプロセス(道徳的直観)によって生じる。このプロセスにおいて我々は道徳的真理の真偽を、議論なしに、ただ「見てとる」。道徳的直観は一種の認知ではあるが、推論ではない。

理性主義的モデル:【理性】―因果的寄与→【判断】

直観主義的モデル:【直観】―因果的寄与→【判断】

 Haidtは自説を擁護するためにいくつかの証拠を提出するが、なかでも有名なのが次である(Haidtら[2001])。

道徳的まごつき

ジュリーとマークは姉弟であり、夏休みに一緒にフランスに旅行に出ていた、ある夜、戒厳そばのキャビンで二人だけで過ごしていたが、関係をもつのは興味深く楽しいことであろうとふたりは決意した。少なくとも互いにとって新しい経験ではあるだろう。避妊のためにジュリーはピルを飲んでいたし、マークもコンドームを用いていた。ふたりとも行為を楽しんだし、また、もう一度は絶対にやらないと決意した。ふたりともこの夜のことは秘密として守っており、そのことが互いをいっそう親密に感じさせてもいる。あなたは以上のことについてどう思いますか? ふたりが関係を持ったことは問題ないことですか?

この事例を提示された被験者は典型的に、「すぐに」この行為が「悪い」と判断し、「理由を探し」始める。しかし行為が悪いと言える明らかな理由は事例から除外されているので、多くの被験者は自分の判断を正当化することはできない。こうしたまごつきを前にしても、被験者は判断を撤回せず、証拠なしでもそれが正しいと主張し続けた。
これらの証拠からHaidtは、道徳的判断にかかわる推論は事後的な正当化のプロセスでのみ働くものであり、道徳判断産出には影響していないと論じた。
ではなぜ我々は自分の判断の理由を知っていると思っており、真実に無知なのか、実験的知見がその無知を説明する(Nisbett and Wilson[1977])
1)人は自分の心的状態とその状態の因果的効力をつなぐプロセスについて、意識的に気づいていない
2)人は自分のふるまいを説明するにあたってしょっちゅう作話している

認知の二重過程説

Haidtは異なる二種類のメカニズムが認知を支配するという二重過程説を採用している
・被制御プロセス:関係する証拠を探し、比較考量する意識的な制御のプロセス
・直観プロセス:素早く経済的で自動的で、意識にアクセス可能なのはプロセスではなく結果
→Haidtは、道徳的判断は後者のメカニズムの産物なのだと示唆している。
▲しかし社会心理学における二重過程説の文献は、Haidtの見解を疑うべき基盤を与える。
無意識的な人種バイアスの研究によれば、(暗黙連合テストIATのような)間接的指標では人種バイアスを示す人が、(自己報告のような)直接的指標では示さないことがある。この結果は二重過程説を支持する。しかし推論プロセスは事後的にしか働かないというHaidtの見解はこの研究事実とフィットしないようにみえる。むしろここでは、意識的な制御のプロセスは、言語的反応や行動を実質的に制御していることが示唆されている。
実際、被験者に認知的負荷をかけてやると、言語報告がIATの結果に近づくことが分かっている(Richeson and Shelton[2003]、Bartholow et al.(2006))。従ってここでは、直観プロセスのみが舵を切っているのではなく、プラトンの比喩のように、御者が馬(直観的プロセス)を制御しているというモデルの方が適切である。少なくとも人種バイアス研究の場合、人々の実際の道徳的判断においては、暗黙のバイアスプロセスが非制御プロセスによってチェックされていると言える。

推論と意識/無意識

確かに以上の論点は決定的ではないが、しかしたとえHaidtが考えているように直観が支配的であったとしても、そこから「道徳的規則または推論が道徳判断の産出において現れているか否かという」問いは解決されない。というのはHaidtの推論/直観区別は単純な意識的/無意識的区別に対応しているからである。〔無意識的な推論が存在すれば、Haidtの批判は有効ではないことになる。〕
 Storms and Nisbett[1970]は次のような実験を行った。不眠症の被験者が「興奮」「リラックス」「対照群」の三群に分けられる。被験者には二夜にわたって睡眠時間の15分前にプラセボの錠剤が渡される。その際、興奮群では、この薬には「心拍数や呼吸数が上がったり……不眠症の症状が出る」と伝えられ、リラックス群では逆に「心拍数や呼吸数が下がったりする」と伝えられる。被験者の報告によれば、興奮群は寝付くのが極めて速く、リラックス群では極めて遅かったという。
Nisbett and Wilson[1977]は、興奮群の被験者は自分の不眠症の症状が薬の働きへと再帰属した一方で、リラックス群の患者は、リラックス薬を飲んでいるのにまだ症状を感じているということは興奮が非常に強いに違いないと考えた、と、この実験結果を説明している。実験後のインタビューで、被験者は「飲んだ後は薬のことは完全に忘れていた」と殆ど一様に報告した。つまり、実験結果は興奮状態の内省的な評価と期待される状態との比較という推論の結果のようだが、後で訊かれると被験者はこの推論のプロセスを取り戻すことに失敗する。
 この失敗を説明するひとつの方法は、Haidtのように、ここでみられる推論プロセスは自動的で無意識的なプロセスに支配されていると考えることである。これが正しければ、この推論プロセスはいかに複雑な推論やその他の特徴を持っているようにみえようと、Haidtの意味で「推論」ではなくなる。ここからは、Haidtの「推論」という語の使い方が、明らかに推論である心的プロセスを除外してしまっていると帰結すべきである。
 Haidtの実験は、道徳的規則や推論プロセスが道徳判断の産出に関係するか否かについて何も言っていない。言われたのはただ、こうしたプロセスが何であれそれは、
(a)終わった後すぐ内観的にアクセスできなくなる過程である
か、もしくは
(b)対抗する証拠を前にしてすぐ「不活性」になることができないプロセスである
かのどちらかであるということにすぎない。
(a)は上で見たNisbettとWilsonの実験を含め多くの古典的事例の説明として尤もらしく思われる。それが暗黙的である、よく覚えていなかったなどのさまざまな理由から、ひとたびなされた推論を、すぐ後に問われたときに回復できないことがあると考えるのには、十分な理由がある。
(b)でもまごつきをちゃんと説明できる。被験者は実験者に理由を否定された後にのみまごつくのであるが、判断というのは一度撤回されるとすぐには撤回されないものなのかもしれない。
以上をもって、道徳的規則は意識的にアクセス可能であることなしに、推論上で重要な因果的役割を果たすことができると、単に約定することができる。

3.規則と道徳的/慣習的の区別

Blair[1995]は、直観的プロセスの中でも、情動的反応の重要性を強調することで、道徳的規則の重要性に疑問を投げかけた。

道徳的/慣習的の区別と暴力抑止メカニズム

かなり多様な人々が、道徳の違反(ex.理由なく人をぶつこと)と慣習の違反(Ex.朗読中に立つこと)を別様に扱うことが研究によりわかっている。
 まず、何故道徳違反が悪いのかを説明するとき、人は被害者の苦痛に訴える傾向がある。一方で、慣習違反の場合では社会的な認容可能性に訴える傾向がある。また、慣習的規則は、道徳的規則とは違い、権威に依存するものだと考えられている。
 犬が服従のサインを出した相手にはそれ以上攻撃しないように、社会的動物には同一種内での闘争を抑止するメカニズムがあるとローレンツは考えたが、Blairはこれに類する「暴力抑止メカニズムVIM」が我々の認知体系の中にはあり、これが道徳的違反と慣習的違反を区別する能力の基礎となっていると主張する。
 Blairによれば、VIMは苦痛の表出(display)により活動し、撤回反応を帰結する。またVIMは嫌悪体験を生み、この経験が、道徳的/慣習的課題における道徳的な項目への反応を生み出す。
▲しかし、傍観者である被験者がどんな苦痛の表出も目撃しない事例での道徳判断をも説明しなくてはならない。
→古典的条件付けを介してVIMを拡張する。他人が苦痛を表出するのを目撃した場合、VIMが活動するが、多くの場合観察者は被害者の役割を習得し、被害者のうちなる状態の表象を計算するだろう。かくして、VIMを活動させる苦痛刺激と役割習得を通じて形成された表象の組が存在する。ここで古典的条件付けを通して、役割習得による表象がVIMの鍵刺激になる。

・苦痛刺激―→VIM   =発達による学習⇒   ・役割習得―→苦痛の表象―→VIM 

Blairのモデルは、嫌悪的な情動に似た反応に仲介された、道徳的違反と被害者の苦痛との連合によって全ての道徳判断を説明しようとする。このモデルを簡便のために「情動主義者」モデルとして図示する
情動主義的モデル:【情動】―因果的寄与→【判断】
これは我々の擁護したい道徳的規則説と競合するモデルである。理性主義は道徳理論的な性質(意図や正しさ、、危害)についてある状況を評価することが重要だが、情動主義では苦痛という刺激によって引き起こされる特定の情動的反応によって道徳判断が引き起こされる。

道徳的な悪さ(Wrongness)の判断

 苦痛や苦痛の表象は、ある行為が「wrong(道徳的に悪い)」という判断を説明するのに十分ではない。このことは、badとwrongの判断の違いを利用するとすぐにわかる。例えば歯痛はbadだがwrongなわけではない。道徳的/慣習的課題がなぜ興味深いかと言えば、それがwrong判断へのかすかな手掛かりを与えてくれるからなのである。しかし以下のような理由で、Blairのモデルは、何かがwrongだという判断の説明に失敗している。
 Blairによれば、VIMは特定の嫌悪的反応につながる。この反応を促進する刺激は「悪い」と見なされる。この意味で「悪い」刺激のクラスは、VIMの活動を確実に引き起こすようなものならば何でも入るので、歯痛の被害者、自然災害の被害者、事故の被害者などもここに入ってしまう。しかしもちろん、自然災害はbadだが、目的論的脱線をしない限りwrongとは見なされない。この点は実験でも確かめられている。自分が作ったクッキーは自分で食べてよいというルールの学校で、友達のクッキーを欲しがっている子に対してクッキーを与えなかっとことでその子が泣いてしまっても、与えないということは道徳を侵犯しているとは全く見なされない。ある人が友人に苦痛をもたらしたという単なる事実だけでは、道徳侵犯の判断を生むには十分ではなかった(Lesile, Mallon, and Dicorcia[2006]).
 この失敗の最も自然な説明は、Blairが規則を道徳的判断生成のプロセスに組み入れていなかったことであろう。

4.規則と道徳的ジレンマ

道徳的ジレンマの研究は、情動がいかに道徳判断に影響を与えるかを示し、情動ベースの道徳的判断の説明を提示している。

直接的/非直接的(Personal/Impersonal)

トロッコ問題では傍観者ケースと橋ケースでの反応が違うことが知られているが、Greeneはこの違いを説明するために直接的/非直接的(Personal/Impersonal)の区別を導入した。
「道徳違反が直接的なのは、それが(2)特定の人に(1)深刻な身体的危害を引き起こし、(3)その時その害は、別の人々への既存の脅威を逸らすことから帰結している訳ではない。これらの基準にかなわない道徳違反は非直接的である。」[Greene & Haidt 2002]
橋ケースは直接的であり、傍観者ケースは直接的ではない。Greeneは橋ケースが直接的であることで情動的反応を誘発し、この反応が、行為が不適切だという判断を誘発すると主張する。
Greeneは直接的/非直接的区別を二重過程説の中に組み込む。Greeneによれば、直接的ジレンマは「情動」の道を活性化し、非直接的ジレンマは「理性」の道を活性化する。さらにGreeneは、理性ベースの判断は功利主義的であると主張している。

二重過程モデル:
【理性】―因果的寄与→【判断】
【情動】―因果的寄与→【判断】

直接的だが許される行為

Greeneの提案を道徳判断一般的説明と考えると、明らかに直接で情動的に際立った行為が許容可能だと判断される一見した反例が数多くある(自己防衛、戦争、罰など)。また、許容される行為には文化差もある(ヤノマメにおける妻を殴ること、西欧における割礼)。
Greene自身も、直接的であるだけでは悪さ〔wrongness〕の判断に十分ではない事例を認めている。ただしそこで扱われている事例は功利計算をすると明らかに行為すべき事例ばかりである(Ex. ナチに見つからないためなら泣く赤子を殺す事例)。これらの事例とGreeneのモデルからは、次のような二つの規則性(regularity)が成立していることが示唆される。
(a)行為が直接的な場合、それが許されるためには、効用を最大化しなくてはならない。(赤子ケース)
(b)行為が効用を最大化する場合、それが禁止されるためには、直接的でなければいけない。
(橋ケース)
我々は(a)の成立を疑問視する。上で挙げた事例(自己防衛や罰)が許されるのはそれが効用を最大化するからだとは、人は考えていそうにもないからである(Haidt & Sabini[2000]他、およびChap4「Moral Emotion」を見よ)。この見解が正しければ、Greeneの「功利計算を伴う直接的行為」への訴えは、道徳的判断の説明としては不適切ということになる。
さらに、直接的行為へ訴えても、傍観者ケースと橋ケースの非対称性を説明することもできないと我々は考える〔これについては次の節で扱われる〕。一方で、規則ベースの道徳的判断の説明をとれば、自己防衛や罰はそれに対する規則がないので不適切とは見なされないという、非常に自然な説明を与えることができる、

トロッコ問題と規則ベースのアプローチ

では、もとの非対称性の問題に規則ベースのアプローチはどう答えることができるか。
提案:「殺すなかれ」というような規則は、意図的に人を死に至らしめることを禁ずるが、意図的ではないが予見可能な副作用として死に至らしめることは必ずしも禁じない。
ここでは規則ベースのアプローチでも非対称な直観が説明できると示しさえすればいいので、規則が何を禁じているかをどう明確化するかという決着を見ない領域に踏み込む必要はない。しかし、そこでコンセンサスがないという事実は、この提案をアドホックに見せる。
そこで「この非対称性は規則で何が許されているか否かによる」という主張を支持する、独立した方法があると良い。
仮説:非対称な直観を生むのは、直接的な文脈に限らず、多くの規則に共通な特徴である。
これを言うためには、橋と傍観者の事例と平行だが、直接的でないような事例を用意すればよい。そこで、「人が死ぬ」を「コップが割れる」に変更し、「コップを割ってはいけない」という規則のもとで、
非直接的傍観者:おもちゃの列車から5つのカップを助けるために、路線を切り替える。複線の一つのカップは割れる
非直接的橋:おもちゃの列車から5つのカップを助けるために、一つのコップを投げつけて列車を止める。投げられたコップは割れる。
の2シナリオを作り、それぞれのケースで登場人物が規則を破ったか否かを聞いた。
結果は明らかで、もとと同じ非対称性が現れた。ここから上記の仮説は支持され、規則ベースのアプローチへの独立の証拠が提示された。

5.規則違反と全体的な許容可能性

規則のみで全ての道徳判断を説明できるか

 ここまで規則ベースのアプローチを批判から擁護してきたが、規則のみに訴えて全ての道徳的判断を説明できるだろうか。ここまでの議論からは、ある行為が規則を破っていると判断されるが、同時に「全ての事情にかんがみると」許容可能だと判断される可能性が開いている。実際、上の非直接的橋の実験で、「全ての事情にかんがみると、彼女がコップを投げたことは問題ないだろうか」と質問すると、多くの人が問題ないと答える(規則は破っているが問題ないというのが大多数の反応)。
→少なくともいくつかの規則において人は規則違反と全体的な許容可能性を区別していることがわかる。
 とはいえ、道徳的規則の場合にはこの複雑化は起こらないかもしれない。絶対的義務論や規則功利主義によれば、規則違反だけで全体的な非許容に十分である。道徳的判断における規則の役割についてどちらかの見解が正しければ、橋のケースの結果に非常に尤もらしい説明が与えられる。
 しかし、様々な方法論により、感情が道徳的判断に影響するという知見が得られており、とりわけ全面的な許容可能性は情動の活動によって影響うけるようだ。ここから、規則のみでは道徳的判断の適切な説明ができないことが示唆されている。「情動が、規則の際立ちや重要性に寄与する」というのが自然な提案だろう。

二重過程説との違い

 この提案は二重過程説とは異なる。二重過程説では二つのシステムを競合するものとして扱っている(理性的vs情動的・遅いvs早い……)。この考え方はGreeneのジレンマの説明において明らかだった。我々も、功利主義的考察が全面的な許容可能性に寄与すること、さらに功利主義的な考察が非功利主義的な思考パターンと競合することもあることを認める。しかし、非功利主義的な判断に関しては、まったく別のモデルを採用する。ここでも理性と情動の二要因は組み合わさって判断を産出する。これは二重「過程」と言うより二重「ベクトル」と言う方が適切である。
(非功利主義的)道徳判断の二重ベクトルモデル:

【理性(規則を介して)】―→【???】―→【判断】
               ↑
【情動】 ―――――

しかし両者がどのように相互作用しているかは未だ明らかではない。

念押し

非功利主義的な判断で規則が重要だという点を強調するためにもう一つ実験を考察する。Wheatley and Haidt[2005]では、「どんな種類の違反もない」事例を提示した。

ダンは生徒会役員である。今学期彼は、授業の予定に関する議論の責任者になった。彼は議論を刺激するために、教授陣にも生徒にも訴えかけるようなトピックを【とろうとしている/よく選んでいる】。

ここで被験者には、特定の語(とる/よく)に対してむかつきを覚えるように催眠術による教示が与えられた。するとむかつき条件の下では、この行為が道徳的に悪いという評価が有意に高くなったという。
 しかし、実際の値を見よ。1〜100点のうち、むかつき条件の平均値はたったの14である。ここにはルールなしで感情が誘発されているデータがあるわけだが、ここに道徳的非難はないと言わざるを得ない。

6.結論

道徳的判断形成において情動が重要な役割を果たしているというのは、近年の道徳心理学の発見の中でも最もイカすものかもしれない。しかし、情動に熱中するあまり、道徳判断を情動反応と同一視してはいけない。道徳的判断の能力は複雑であり、証拠をよく見れば、情動配置は一要因にすぎず、規則ベースの説明も重要な要素を捉えているとわかる。残された問題は両者がどう相互作用し、実際に見られる道徳判断のパターンを形成するかである。