えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

英国哲学との関係で見るドイツ啓蒙 Kuehn (1996)

British Philosophy and the Age of Enlightenment: Routledge History of Philosophy Volume 5

British Philosophy and the Age of Enlightenment: Routledge History of Philosophy Volume 5

  • Brown, S. (ed.), (1996). Routledge History of Philosophy, volume5, British Philosophy and the Age of Enlightenment. New York, NY: Routledge.
  • 12. Kuehn, K. The German Aufklärung and British philosophy.

  ドイツ啓蒙は英国哲学から多大な影響を受けています。ドイツ啓蒙の歴史は、ヴォルフの理性主義哲学とトマージウス派との論争の頂点である、1724年ハレ大学でのヴォルフの講演「中国における実践哲学」から始まるといえます。ここでは、1720年からヴォルフの死1754年までを前期啓蒙、1755年からカント哲学の成功を見る1795年までの、英仏により開かれていた時期を、「後期啓蒙」と呼びます。

前期啓蒙・ヴォルフの時代

 この時期はトマージウス派とヴォルフ派の論争により特徴づけられます。両派とも英国哲学、特にロックの業績を知っていましたが、深く影響を受けたとは言えません。トマージウス派は哲学を神学へと従属させる傾向が強く、心に関する見解にはロックの影響が確かにあるのですが、ロック哲学の特徴である個々の認識論的問題の精査は無視されていました。クリスティアン・クルージウスは、もはやトマージウスの単純な感覚主義は受け入れず、生得観念説を完全に否定はしませんでしたが、議論を詳細に行うことはありませんでした。結局のところ、トマージウス派がロック哲学を受容したのは、理性の感覚への依存を指摘することでヴォルフの理性主義を批判するという文脈の中だけだったのです。
 一方のヴォルフ派も、その企図がライプニッツのアイデアをより明確で体系的にする事にあったため、ホッブズやロックにはあまりかかわりをもちませんでした。ただ、「感覚という手段を通じて、我々は、物質の世界にあるもの、現れるものを知る」と述べたヴォルフは、決して「経験的観察を考慮しない」という意味での「理性主義者」ではありませんでした。しかしヴォルフ哲学の課題は、「起こりうる物事がどうして実際に起きたか」を「確実で普遍な原理から」、「完全な確実性をもって」示すというライプニッツ的な路線にあったため、この点でロックはほとんど役に立ちませんでした。それでも「どのような物事があり、また現れるのか」は重要な問いだったため、経験的心理学や道徳哲学においてはロックへの比較的好意的な言及が見られます。ですが結局、ヴォルフのロックへの参照は体系の中でも前哲学的あるいは「事象記述的」な部分に限局されており、これはバウムガルテンなど後のヴォルフ派でも変わりませんでした。

後期啓蒙・大衆哲学の時代

 1750年代の哲学の状況を、モーゼス・メンデルスゾーン(1729-86)は「全般的な無政府状態」、「デカルトがスコラを放逐し、ヴォルフがデカルトを放逐し、あらゆる哲学への蔑みが結局ヴォルフも放逐した。クルージウスがすぐに流行の哲学となろう」と述べます。こうした現象は西欧一般のものでした。英国は勿論、フランスでもコンディヤック、ヴォルテール、ルソー、ビュフォンらが、英国の自然科学と哲学に結びついた経験主義的立場を表明していました。ドイツの教養層がフランス語を話し、文学、文化のモデルをフランスに求めていたことを考えれば、同じことがドイツで起きるのも必定でした。
 1740年、フリードリヒ大王が権力を握ると、彼はすぐさまベルリン科学アカデミーの地位向上のために再組織化を行いましたが、この際、傑出したニュートン主義者であった二人、フランスの自然哲学者モーペルテュイとスイスの天才的数学者オイラーがアカデミーに呼ばれました。当時の終身書記であるJ.B.マーティンがニュートニアンで反ヴォルフ主義者であったことから、大王はバランスを取ろうとして、有望なヴォルフ主義者も招きましたが、1744-1759年に優勢だったのは明らかにニュートン主義でした。懸賞論文の問いもライプニッツ‐ヴォルフ哲学に不利、ニュートンに有利なようにデザインされたのでした。こうして英国哲学への関心が高まっていったのです。アカデミーの会員にはバークリやヒュームも知られており、特にヒュームは、ライプニッツ−ヴォルフ哲学への批判の際によく引き合いに出されたようです。英仏の文学・哲学的著作との緊密な接触は、ドイツの学者に自国の科学・芸術的状況の不完全さ・欠乏を気づかせ、教育、科学と芸術の洗練、美的表現などの意欲を高めると共に、ライプニッツ−ヴォルフ的な大学のあり方に嫌悪を抱かせていきました。

哲学のスタイルと方法

 ヒュームの「探究」の翻訳者であるヨハン・ゲオルグ・ズルツァー(1720-79)は、ヒュームを「哲学的文筆家」として賞賛しました。彼にとってヒュームの著作は、一般的な語彙を用い且つ哲学的推論を行うという、真の大衆哲学のモデルだったのです。またスルツァーにとってヒュームの著作は、ヴォルフ主義に対抗する道具を与えてくれるものでもありました。またメンデルスゾーンもヒュームのスタイルに大きく影響を受けました。
 またクリスチアン・ガルベは、原理からの演繹を行うのではなく、常識を備えた読者を事物に向かい合わせ、自らの経験からの断片的な発見を読者の知識に加えようとする思考法を「観察の方法」と名付け、これをヒュームの著作に見出しました。ヒュームはスタイルのみならず新しい哲学の仕方のモデルにもなったのです。経験的な観察の方法はそれ自体が体系的なものでもあり両者は矛盾しないと論じられ、ヒュームの注意深さと方法論的懐疑は新たな独断論的哲学法へと変化していきました。
 ゲッティンゲンの哲学者、ゲオルク・ハインリッヒ・フェーダー(1740-1821)とクリスチアン・マイナースも、同様の方法論的考察に基づき、中程度の懐疑主義者を自認しました。この懐疑的姿勢は、彼らをトマス・リードなどの常識哲学者へと向かわせました。当時の哲学者たちは人間の手の届く範囲外の知識を得ようと目標を高くしすぎであるが、実際のところ我々の理性は極めて制限されていると、彼らはリードとともに考えます。哲学はより中庸になるべきであり、思弁ではなく常識から学ぶべきなのです。彼らにとって哲学の真の役割とは、常識やモラルの原理をより明確に打ち建て、それらを行き過ぎた思弁から守ることになります。しかし彼らは、自分自身で哲学的問題を解くよりはその問題に関する諸家の学説を集めるという方向に向かいがちでした。ここから彼らの哲学的アプローチはふつう「折衷主義」、「総合主義」などと呼ばれています。このようなアプローチは18世紀後半に非常に大きな影響力を持ち、多くの哲学書が諸説の単なる羅列に堕してしまったのでした。

形而上学と倫理学における新たな問題

 英国哲学者が提起した問題や観察は、ドイツの哲学者が扱う問題にも大きな影響を与えました。ヴォルフ主義の下では人間の理性的側面の探求が支配的でしたが、いまや感性的側面へ注意が払われます。より経験的手法にもとづいた心理学と人間学、美学と教育理論が、論理と合理的形而上学に取って代わり始めます。形而上学それ自体も変容し、後期啓蒙期にはヴォルフ派の分けた「経験的」形而上学と「合理的」・「純粋」形而上学のうち、前者がいっそう重要になってきます。ただし、純粋形而上学を完全にあきらめるものは少数でした。当時支配的だったのはあくまでヴォルフ主義だったのです。

メンデルスゾーン

 このような潮流に抵抗しつつ、英国の観察を美学や倫理学に取り入れようとした人物の一人がメンデルスゾーンです。彼は英国の哲学者達が、理論・道徳・美学における感覚の分析に関係する問題を提出していると考え、これを解くべきだとします。今や新たな課題は、英国の観察を包括的理論のうちに組み込むこと、「思考と感覚の一般理論」です。
 メンデルスゾーンは、英国哲学者が感覚に由来するとした現象は、実は理性的なものだと考えました。道徳感覚や共通感覚は、一見独立した能力のように見えますが、理性へと還元されなければなりません。ただし、「我々の魂のうちに提示される道徳判断は、個々の理性的原理の帰結とはまったく違う」ゆえに、道徳判断の還元は困難を極め、はかばかしい結果は得られませんでした。ともあれこのように、いかに感覚を理性に還元するか、いいかえれば、英国の観察をヴォルフ的理論に組み込むかが、18世紀後半のドイツの形而上学者、道徳哲学者の中心的な課題となりました。

テーテンス

 なかでも影響力が大きかった一人がテーテンスです。リードに大きな影響を受けた彼は、ドイツの思弁的な形而上学に満足せず、人間の精神の概念や記述することの重要性を認めました。ただし彼は形而上学を放棄したのではなく、むしろ精神の原理を明らかにすることで、既存の形而上学にある混乱を取り除こうとしたのでした。しかし、ロック流の思考の分析では思考が従うべき主観的必然性しか明らかにできない一方で、形而上学的真理は客観的だとされたために、私たちはどうやって客観的真理を手に入れるのかという問題が生じてきました。テーテンスはこの問いを「思考の法則はわれわれ自身の思考能力の主観的な法則にすぎないのか、それとも、それは思考能力一般の法則であるのか」という問いに再定式化し、こう答えました。我々は我々と別様の思考能力というものを考えられないので、理性の真理は客観的真理である。 

カントと啓蒙の終わり

 以上のような哲学的背景のもと、カントは批判哲学を着想しました。カントの理論は、ある重要な意味では、ドイツの同時代人の英国哲学者に対する反応と変わらないと言うことができます。カントもまた、思考と感覚の普遍的な理論を展開し、感覚の単なる主観的な必然性(確実性)が客観的でありうることを示そうとしました。また、説明の仕方が大きく異なりますが、感覚知覚が概念を前提すると示そうとした点でも他のドイツ人に従っています。アプリオリな「悟性のカテゴリと原理」はテーテンスの「悟性の法則」と密接な関係があります。
 同時代のドイツ人と比較した際のカントの独自性は、「感覚を通して経験されうるものを越えては何も知ることができない」というヒュームの懐疑論を正しいと認めた点にあります。同時代人たちがみな、感覚知覚をうまく説明するために伝統的形而上学を改定していた時、伝統的な意味での形而上学は幻想であるとカントは論じたのでした。英国の観察をドイツの理論に取り入れるというメンデルスゾーンの課題を、カントが完成させたといってもいいでしょう。
 しかし純粋理性批判が現れた時、それは問題を解決するものというよりはむしろそれ自身が一つの問題だと考えられました。1790年代を通し、ドイツ人はますます純粋理性批判に向かい、英国の哲学者は触れられはするもののほとんど議論されなくなっていきます。この時期に出たヒュームの『人間本性論』ドイツ語翻訳版の書評は、奇妙なことに本の内容にも翻訳の質にも一切触れず、カントが因果性をアプリオリな原理として演繹した議論を述べているというありさまです。英国哲学はドイツ人が現在進行形で論じる問題とは無関係になっていきます。こうした英国からの離反は、ドイツにおける啓蒙の終焉と一致していました。