えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

狭い内容 Segal[2000]

A Slim Book about Narrow Content (Contemporary Philosophical Monographs)

A Slim Book about Narrow Content (Contemporary Philosophical Monographs)

A Slim Book about Narrow Content
Chap1

双子地球

 性質には内在的性質と関係的性質がある。この本の主題は、心理的状態の「認知的内容」は関係的性質か内在的性質か、という問いにある。ここでの「認知的内容」は、真理条件的な内容や指示的な内容とは区別する(Ex.土曜日の信念「明日は雨だ」と日曜の信念「明日は雨だ」は、真理条件が異なるが同じ認知的内容を持つ)。
 ゾーイが、結婚指輪にはダイアがはめ込まれていると信じている。この内容を持った信念の所有は、ゾーイ自身を超えた何者かとの関係を本質的に含むだろうか? ここでは双子地球の例を考えてみるのが良い。双子地球の双子ダイアは酸化アルミニウムでできているとする。ゾーイと双子ゾーイが「私の結婚指輪にはダイアがはめ込まれている」といったとき、「ダイア」という語で表現される概念は同一だろうか?
→二つの考え方がある。
・同じだよ:ダイアは双子ダイヤではないから。
・違うよ:二人はダイヤの違いに全く気づいてないのだから。

SV

 SVの定式化:
「性質群Bが性質群AにSVする iff A性質の点で同一な2対象はどれも、B性質の点でも同一である」
ゾーイ達が信念の内容という点で違っていれば、彼女たちの微細構造へのローカルSVは成立していない。/ゾーイ達が全ての認知内容を共有していなくてはならなければ、内容はローカルにSVしている。
 内容がローカルにSVするか否かの問いは、内容が主体に内在的か否かの問いと厳密には同一ではない。なぜなら
(1)微細構造へのSVという問いの立て方はデカルト的二元論を排除する。カルテジアンにとって、内容が内在的か否かは脳や身体ではなく魂の問題である。
(2)関係的性質もローカルにSVする場合がある。例えば身長157cmという性質が微細構造にSVするとしても、この性質は数157に対して関係的である。
→このように、抽象的対象と関係を持つと考えれば、内容はローカルにSVしつつ関係的である(McGinnはこの立場を「弱い外在主義」と呼ぶ。)しかしこの立場は扱わない。ここでは外的で、具体的で、偶然的に存在するような対象と内容が本質的な関係を持つかという問いを扱う。
 多くの人が、自然種の概念は現実の事例と実際に関係することを必要とすると考える。Burgeは他の言語使用者との特定の関係が内容を決定すると述べる。

内在主義

 しかしSegalは内容のローカルSVを擁護し、内在主義/個人主義を採る。
テーゼ:特定の認知的内容をもった状態にあることは、外的なものと実際に関係することを本質的に含むわけではない。認知的内容は内在的・微細構造上の性質によって完全に決定される。こうした性質上の複製をつくるとき、認知的内容の複製をも作ったことになる。
→つまり個人主義は(1)内容は関係的でない。(2)内容は微細構造にローカルSVする。の二つのアイデアを含む。
(2)に挑戦し、内容は何にも依存しない(「ダイヤは輝く」と信じているゾーイを、微視的・関係的性質の点で複製した双子ゾーイが「ダイヤは輝く」と信じない場合)という主張をする人(Crane and Mellor, Cartwight)もいるが後で退ける。

体系的説明

 「ダイヤモンドが固いのはその結晶が互いに結びつきあっているからだ」といった種の説明を「体系的説明」と呼ぶ。認知的内容も、その担い手の部分が持つ性質、関係という観点から体系的に説明されるというアイデアもある。しかしSegalは、どの部分のどの性質・関係が内容の説明に重要なのか自分にはわからない(ニューロンの機能的性質? 計算的性質?)ので、あくまで微細レベルへのSVに焦点をあてる。

形而上学的必然性と内在主義

 へスペラス=フォスフォラスは、演繹によって真理と分かるわけではないから論理的に必然〔アプリオリ?〕でもないし、認識論的に必然でもないが、形而上学的に必然である。自然法則やその他のことがどう変わろうと、へスペラスはフォスフォラスと同一の対象だからだ。
 内在主義は、どんな可能な複製に関してもそれらは同じ認知内容をもつ、という形而上学的必然性に関する立場として理解される場合がある。しかしSegalはこの強い主張をとらない。なぜなら、Conceivabilityと形而上学的可能性との関係がいまだ明確ではないからだ。
 以降は、自然的あるいは法則的必然性をあつかう。内在主義の主張は「法則的に可能な双子は同じ内容をもつ」という形になる。これは内容が「実際に」どんなものかを示してくれる。

狭い内容

 ローカルにSVする内容は「狭い内容」とよばれ、そうでない内容は「広い内容」と呼ばれる。
 狭い内容はそれ自身では表象的ではなく、真の表象と間接的に関係するという説がある。例えば一時期のFoder(1987)は、狭い内容とは文脈から広い内容への関数であると考えた。この場合、ゾーイと双子ゾーイは別の意味論をもった思考をもつことになるが、ゾーイが双子地球に行けば、彼女の思考は双子ダイヤに関するのものとなる。逆もいえる。
 狭い内容の「機能的役割」理論を唱えた者もいる。機能的役割は内容が持つ因果的なポテンシャルによって決定される。二つの内容が同じ因果的連接を持つ場合、それらは同一である。機能的役割論者によれば、双子の表象内容は異なるが、狭い内容は同一である。
 しかしSegalは狭い内容は〔それ自身が〕表象の一つであるというタイプの内在主義に立つ。狭い内容は〔関数ではなく〕まさしく内容である。そこで、ゾーイと双子ゾーイのダイヤモンド概念が別の外延を持つことを否定する。また、ゾーイのダイヤモンド概念は、ダイヤモンドにも双子ダイヤにも当てはまることになる。