えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

ノーブ効果の諸相 Alexander[2012]

Experimental Philosophy: An Introduction

Experimental Philosophy: An Introduction

  • Alexander, J. (2012) *Experimental Philosophy: An Introduction*

第1章 哲学的直観
第3章 実験哲学と心の哲学 ←いまここ
第5章 実験哲学の擁護

1.序

直観が明らかにしてくれるのは、概念に関することだ。
 このような見解は、より伝統的には「概念分析」と結び付けられていた。概念分析では提案された定義をチェックするために直観を利用するが、一方実験哲学は直観そのものを説明しようとする。

2.副作用効果(The Side-Effect Effect)

 行為の意図性に関する直観は、その行為(の帰結)の道徳的性質に関する信念によって影響を被ることがある。これは「予測される副作用」が事例に含まれている場合には明らかである。

【事例1:環境破壊】
 副社長が社長に言った「こういう事業を始めようと思います。わが社の利益になるでしょうが、環境を破壊することにもなるでしょう」。ここで社長「環境を破壊するとかはどうでもよろしい。私はできる限り収益を上げたいのだ。事業を始めたまえ」。事業が開始され、やはり環境は破壊された。

【事例2:環境保全】
 副社長が社長に言った「こういう事業を始めようと思います。わが社の利益になるでしょうし、環境を保全することにもなるでしょう」。ここで社長「環境を保全するとかはどうでもよろしい。私はできる限り収益を上げたいのだ。事業を始めたまえ」。事業が開始され、やはり環境は保全された。

 大多数の人は、事例1では社長は意図的に環境を破壊したと判断するのに対して、事例2で社長が意図的に環境を保全したと判断しない事がノーブにより明らかにされた。これは実験哲学の発見の中でも最も有名なものである。
→つまり人は、副作用を道徳的に悪いとみなしている場合に、行為者がその副作用を意図的に引き起こしたと判断しやすい。

 同じことは副作用が含まれる事例以外でも言える。

【事例3:技術なし/よい結果】
 ジェイクはライフル大会で優勝したかった。的の中心に当てなければ優勝できないと知っていた。彼はライフルを構え、中心に照準を合わせ引き金を引いた。しかし、ライフルの扱いが特に上手い訳ではなかったので、手が銃身から滑り銃は暴発した。……しかし弾は的の中心に当たった。ジェイクは優勝した。

【事例4:技術なし/非道徳的結果】
 ジェイクはもっとお金が欲しかった。叔母が死ねば多額の遺産を相続できると知っていた。ある日窓越しに叔母が歩いているのを見た彼はライフルを構え、叔母に照準を合わせ引き金を引いた。しかし、ライフルの扱いがとても上手い訳ではなかったので、手が銃身から滑り銃は暴発した。……しかし弾は叔母の心臓に当った。叔母は即死した。

 大多数の人は、事例3ではジェイクは意図的に中心に当てたとは判断しないのに対して、事例2でジェイクは意図的に叔母を殺したと判断する事がノーブにより明らかにされた。
→つまり人は、結果を道徳的に悪いとみなしている場合には、行為者がその結果を意図的に引き起こしたと判断しやすい。
 こうした帰結について二つの有力な説明がある。
(1)この結果は、道徳判断と「意図的」という語の使用との関係について我々に語る。
(2)この結果は、道徳判断と「意図的行為」概念の間の関係について我々に語るもの。

3.副作用効果と会話における語用論

 Fred AdamsとAnnie Steadman[2004]は、副作用効果は語用論的な考慮、特に「会話の含意」の観点から全面的に説明されるとした。
 人は事例2において社長に責任があると信じている。もし「社長は意図的に環境を破壊したわけではない」と言うとすれば、社長には環境破壊に責任がないという事を含意することになる。そこで人は、社長の行為はそれは意図的だったと言う傾向性を持つのである。従ってこの傾向性は、社長を環境破壊に関して非難したいという欲求の反映である。
 この説明を評価するためには、行為が意図的か否かを決定する方法で、「意図的」という語の語用論的考慮に依存しないものを見つけてやればよい。そこでノーブは、「社長は収益を上げる「ために」環境を破壊/保全したかどうか」を尋ねる実験を行った。ノーブによれば、ある行為を意図的だとみなしていない限り、人は「その行為を特定の目的のために行った」と言おうとは思わないことから、この問いは意図性に関する間接的なテストとなる。この実験の結果は元の結果と一致したことから、ノーブは、やはり元の結果は語用論的考慮によるものではなく、「意図的行為」概念にかかわるものであると結論した。
→AdamsとSteadmanは上記の質問が意図性のテストとなることはノーブに同意する。しかしそうである以上かえって、事例1の際に働いた何らかの語用論的考慮が、今回も働いていると考えるべきであると再反論した。

 確かに、AdamsとSteadmanの言うような語用論的考慮が事例1において働いているとするならば、彼らの再反論は正しい。しかし、Malle[2006]が指摘するように、事例4において人は非難を直接表明するように求められている。にも拘らず、それを会話的に含意する必要性を感じているのだというような説明を行うのは奇妙である。
 会話の含意とは違ったやり方で、責任帰属が意図性帰属に影響を与えているのかもしれない。たとえば、一方である人に行為の責任があるのだと言い、他方でその行為は意図的ではなかったという事は、発言の一貫性に欠けていると人は感じるかもしれない。しかし、

【事例5:飲酒運転者】
ボブは仕事の後お酒を飲んで車で帰宅しようとしていた。しかし酔っ払いすぎていて車のコントロールを失い、対向車線に突っ込んで5人家族を殺してしまった。

 ノーブ[2003]によると、多くの人は、殺害は非意図的であると判断したにも拘らず、ボブには一家殺害の責任があると判断した。従って、人々の意図性帰属は、責任を会話的に含意させるためになされるのでもなければ、一貫性のためになされるのでもない。以上のことから、副作用効果が語用論的考慮によって最もよく説明されるという見解は維持できない。

4.副作用効果と我々の「意図的行為」概念

 ノーブは、副作用効果は(1)規範的判断と「意図的行為」概念の間の関係について、そして(2)意図的行為に関する判断の基礎にあるメカニズムの固有な機能について、何か特殊なこと語っていると考えた。この見解は、意図的行為概念の機能が行動の予測と説明に制限されていた従来の見解とは大きく異なり、この概念は価値評価的な営みの中でも役割を果たしていると考える。
 ナーデルホッファーは(1)には同意するが、副作用効果が明らかにしているのはむしろこのメカニズムの機能不全だと主張した。事例1で言えば、社長に対する人々のネガティヴな感情的反応は、社長が環境を意図的に害したのだという誤った判断を引き起こし、人々の意図性判断をゆがめている。
 「ゆがめている」という主張は、「すべきではない」ということを示唆してる。なぜか。
 ある行為が意図的か否かは、行為者が法的責任に値するか否かの決定に影響を与えると考えられている。道徳的考慮が意図性判断に影響するなら、ある行為が強いネガティヴな反応をもたらすほど、行為者はその行為に対して法的責任があると人々は考えがちになる。

【事例6】警官
泥棒が盗品でいっぱいの車を運転している。赤信号で止まっていると、警官が銃で威嚇しながら近づいてきた。警官を見て、車は交差点を走り去った。しかし驚いたことに、警官は車の側面にしがみついてきた。泥棒は逃げようと思いジグザグに車を走らせた。そうすれば警官が非常に危ないことはよくわかっていたが、そんなことはおかまいなしで、彼はただ逃げたかったのだ。警官には不幸なことに、振り落としは成功し、警官は対向車線に転がり落ちて致命傷を負った。彼は数分後に死亡した。

【事例7】車泥棒
ある男が赤信号で停車していると、突然、車泥棒が銃で威嚇しながら近づいてきた。泥棒を見て、彼は混乱して交差点を走り去った。しかし驚いたことに、泥棒は車の側面にしがみついてきた。男は逃げようと思いジグザグに車を走らせた。そうすれば泥棒が非常に危ないことはよくわかっていたが、そんなことはおかまいなしで、彼はただ逃げたかったのだ。泥棒には不幸なことに、振り落としは成功し、泥棒は対向車線に転がり落ちて致命傷を負った。彼は数分後に死亡した。

 この事例は構造的には同一だが、事例6を問われた人々は事例7を問われた人々よりも、運転手に強いネガティヴな感情的反応を示した。さらに、事例6の被験者は事例7の被験者よりも「運転手は死を意図的に引き起こした」と判断した。このことは、警官の死の場合に、運転手には法的責任があると人々が判断しやすいということを示す。しかしナーデルホッファーの考えでは、強い否定的感情を生み出すような犯罪を行ったという角で人が告発されるという事態を我々は求めていない。そこで、道徳的考慮は意図性判断に影響を与えるべきではない。
 ここでの中心的なアイデアは、感情的反応が(向こう見ずな形で)意図性判断を駆り立てているということだ。しかし、意図性判断が常に情動的なわけではない。実際脳の損傷によって感情的反応を持つ能力を欠いている人々でさえ、事例1で社長は意図的に環境を破壊したと判断する。これは、ネーデルホッファーの見解に疑問を投げかける。
 もちろん、非難も常に情動的なわけではない。さらに、飲酒運転者の例が示すように、非難と意図性も別々のものなのである。また、非難と意図性が一致しているケースでも、人々は普通、先に意図性の判断をして、あとから非難の判断をする事が知られている。ここから、「社長を非難したいと欲する「ゆえに」環境破壊が意図的だったと判断する」という見解を維持することも難しい。意図性判断に対して、情動も責任も主導権を持っているわけではない。

 ノーブとナーデルホッファーは(1)で同意し(2)で見解を異にしていた。しかしEdouard Macheryは二人の見解両方に対して疑問を呈している。Marcheryの主張は二つある。
1)副作用効果が概念能力の観点から最もよく説明されるかどうかに関してはニュートラルであるべき。
2)副作用効果が語っているのは、「意図的行為」概念と、費用便益の考慮との間の関係である。

1)ノーブとナーデルホッファーの間の争点の一部は、副作用効果は「概念能力」について何かを語っているのか、それとも「概念運用」についてかという点であった。能力/運用の区別はチョムスキーまでさかのぼり、特定の概念に関する知識を持つことと、その概念を使用することとを区別するために用いられる。この区別の基本的な発想は、特定のファクター(たとえば、資源の制約、他の認知プロセスからの干渉)は、ある概念に関する知識に影響を与えたり、その概念の意味を反映することなく、当の概念の使用に影響を与えうる、ということである。
 ここでの問題は、この種の対立を解決するには、概念能力と概念運用を切り離すために、意図的行為という素朴な概念が行っていると思われる働きに関して説明を与えることが必要であり、それを我々は今のところもっていないという点である。
 進化論的あるいは目的論的なアプローチによって意図的行為概念の働きを同定しようとする道もあるかもしれない。また、「意図的行為概念の働き」という考え方から出発せずに、能力/運用の区別を基礎付ける別の方法もあるかもしれない。しかし、そのどちらも欠けているのだから、概念運用/能力に関する問題にはニュートラルであるのが最も合理的である。

2)Macheryは「トレードオフ仮説」を提唱する。事例1では、利益の増大はコスト(環境破壊)と結びついている。コストは意図的に負われるものであると人々は考えるがゆえに、事例1において社長は意図的に環境を破壊したと判断されるのである。逆に、事例2には何のコストもない。Macheryはトレードオフ仮説擁護ために二組の事例を提示した。

【事例8:追加料金】
ジョーは死ぬほど喉が渇いていたので、一番大きいサイズの飲み物を注文するためにスムージー屋に立ち寄った。注文の前に店員が、メガサイズスムージーはいつもよりも1ドル高くなっている旨を伝えた。ジョーは言った「1ドル払うなんてどうでもいいことよ、この店で一番でかいスムージーを飲みたいんでね。」。そういうわけで、ジョーはメガサイズスムージーを受け取って一ドル多く払った。

【事例9:無料のカップ】
ジョーは死ぬほど喉が渇いていたので、一番大きいサイズの飲み物を注文するためにスムージー屋に立ち寄った。注文の前に店員が、メガサイズスムージを買うと記念カップに入れてもらえる旨を伝えた。ジョーは言った「記念カップなんてどうでもいいことよ、この店で一番でかいスムージーを飲みたいんでね。」。そういうわけで、ジョーはメガサイズスムージーを記念カップで受け取った。

 Macheryによると、事例8について考察せられた大部分の人がジョーは意図的に追加料金を払ったと判断した一方、事例9ではジョーは意図的に記念カップを買ったわけではないと判断した。また、大多数の人がここでの行為を道徳的に無記だと考えていたので、この事例は行為の道徳的地位以外の何ものかに関する信念が意図性判断に影響を与えているという証拠、意図性判断は単純な費用便益の考慮に影響されているという証拠になる。
 費用便益考慮の影響は、行為が道徳的に無記な場合に限られない。

【事例10:作業員】
ジョンはトロッコの路線の近くに立っており、トロッコのブレーキが壊れていることに気づいた。路線上では5人の作業員がそれに気づかず作業している。このまま暴走トロッコが進むと作業員たちにぶつかり、彼らはたぶん死ぬだろうとジョーンズは悟った。彼らを助けるにはトロッコを支線に切り替えるスイッチを押すしかない。しかし不幸なことに支線にも一人の何も気づいていない作業員がいる。もしスイッチを押せばこの人は死ぬだろうが五人のほうは助かるだろうとジョンは知っていた。ジョンはスイッチを押すことに決めた。そういうわけでトロッコは支線に移り、本線にいた五人は助かったが支線にいた一人は死んだ。

【事例11:犬】
ジョンはトロッコの路線の近くに立っており、トロッコのブレーキが壊れていることに気づいた。路線上では5人の作業員がそれに気づかず作業している。このまま暴走トロッコが進むと作業員たちにぶつかり、彼らはたぶん死ぬだろうとジョーンズは悟った。彼らを助けるにはトロッコを支線に切り替えるスイッチを押すしかない。さらに、路線の上には一匹の何も気づいていない犬がいる。もしスイッチを押せば五人も犬も助かるだろうとジョンは知っていた。ジョンは「犬を助けることはどうでもいい。ただ五人を助けたいんだ」と思った。ジョンはスイッチを押すことに決めた。そういうわけでトロッコは支線に移り、本線にいた五人と犬は助かった。

 Macheryによると、事例10について考察せられた大部分の人がジョンは意図的に支線の作業員の死を引き起こしたと判断した一方、事例9ではジョンは意図的に犬を助けたわけではないと判断した。また、大多数の人がここでの行為を道徳的に適切だと考えていたので、この事例は先ほどの主張に対する更なる証拠になっている。
 
 このトレードオフ仮説には二つの読みがありうる。人々の意図性判断には、仮想上の行為者がコストだと考えるものだと読む「行為者読み」。もうひとつは、人々自身がコストだと考えるものだと読む「被験者読み」。どちらの読みをとってもこの仮説には重大な難点がある。
 まずもし行為者読みをとるなら、Mallonの指摘のように、仮想上の行為者が関連する副作用をコストだと考えないようなケースでは、副作用効果は消滅することが期待される。しかし次の例を考えよ。

【事例12:有害なテロリスト】
テロ集団のメンバーがリーダーに言った「ナイトクラブを爆破しようと思います。多くのアメリカ人が死ぬでしょう。ただ、オーストラリア人も死ぬので、オーストラリア人にも害を与えることになります。」リーダーは答えた。「オーストラリア人を害するのは良い事だとは認める。しかしそんなことは本当はどうでも良い。私は出来る限り多くのアメリカ人を殺したいだけなのだ。爆破しようじゃないか」。彼らはナイトクラブを爆破した。そしてもちろん多くのオーストラリア人が死んだのでオーストリア人は害をこうむった。

【事例13:有益なテロリスト】
テロ集団のメンバーがリーダーに言った「ナイトクラブを爆破しようと思います。多くのアメリカ人が死ぬでしょう。ただ、土地の不動産価格を下げることになるので、近所の孤児院が土地を手に入れるのを助けることになります。」リーダーは答えた。「孤児院を助けることは良い事だとは認める。しかしそんなことは本当はどうでも良い。私は出来る限り多くのアメリカ人を殺したいだけなのだ。爆破しようじゃないか」。彼らはナイトクラブを爆破した。そしてもちろん不動産価値が下がったので孤児院は助けられた。

 Mallonによると、事例12について考察せられた大部分の人がテロリストは意図的にオーストラリア人を害したと判断した一方、事例13ではテロリストは意図的に孤児院を助けたわけではないと判断した。このことは、意図性判断が仮想上の主体がコストとみなすものに影響を受けるという見解に不利である。何か別のものが影響を与えているはずである。
 一方で被験者読みをとると、PhelanとSarkissianの指摘のように、人々がある行為について、それが重要な目標の追求において負われるべきコストであると判断する場合、その行為は意図的であると判断されることが期待される。しかし次の事例をみよ

【事例14:思いやりのある上官】
上官が軍曹と話している。上官は「君の班をトンプソン丘の頂上に送るように」と命令を出した。軍曹は言った「しかし、私の班を丘の頂上に送ると、敵の射程のなかへ直に人を動かすことになります。何人かは死を免れません。」上官は答えた「いいかね、彼らが射程内に入ることも、何人かは死を免れないことも分かっている。私は誰よりも自分の兵のことを気にかけている。しかし、これはトンプソン丘でのわれわれの作戦を成功させるためには絶対に必要なことなのだ。」班は丘の上へ送られた。予想通り兵は射程の中に入ることになり、何人かは死んだ。

 PhelanとSarkissianによると、事例14について考察せられた大部分の人が上官は意図的に兵士の死を引き起こしたわけではないと判断した。人々は概して兵隊の死をコストであると考えるから、この結果は意図性判断は被験者自身がコストとみなすものに影響を受けるという見解に不利である。やはり何か別のものが影響を与えているはずである。
 
 ここまでいくつかの説明を見てきたが、そのどれもが「意図的行為」という単一の素朴概念があると仮定していた。ニコラスとウラトフスキは、複数の「意図的行為」概念があり、副作用効果はそれぞれの概念と規範的判断との関係について何か語るものだと考えることで最もよく説明されると主張した。
 ここで問題となるのは、どのように少数者の反応を最もうまく説明するかである。典型的にはこうした反応はノイズとして扱われるが、しかしニコラスとウラトフスキは、事例1と事例2を両方考えるように求める実験によって別の説明を提示した。この実験では、ある人たちは事例1は意図的、事例2は非意図的という非対称な判断を示したが、どちらも意図的/非意図的だという対照的な判断を下すものもいた。さらに、事例1が意図的だという判断の説明には「事業は環境を破壊することになる」という社長の信念が引き合いに出され、事例2が非意図的だという判断の説明には「環境を保護したい」という社長の欲求はなかったという点が引き合いに出されることが典型的であると分かった。以上から彼らは、認知的要素を含む「意図的行為」概念と動機的要素を含む「意図的概念」という二つの別々の素朴な概念がある、と示唆するにいたった。

 カッシュマンとメレがこれに反対している。どちらの事例でも社長は事業が環境にどのような影響をもたらすかについての信念を持っていたし、また関連する環境を破壊/保全しようという欲求は持っていなかった。では、関連する欲求はあるが信念はないような事例はどうか。ニコラスとウラトフスキの見解が正しければ、3つのことが起こるとカッシュマンとメレは予言した。
(1)認知的概念を働かせる人は、欲求あり信念なしの場合よりも、信念あり欲求なしの場合に、行為を意図的だと判断する傾向を持つ。
(2)動機的概念を働かせる人は、信念あり欲求なしの場合よりも、欲求あり信念なしの場合に、行為を意図的だと判断する傾向を持つ。
(3)関連する欲求はあるが信念はないような事例では、認知的概念を働かせる人よりも動機的概念を働かせる人のほうが、行為を意図的だと判断する傾向を持つ。 
しかしカッシュマンらは(1)および(3)は成り立たないことを見出し、実際には2つ以上の「意図的行為」概念があるのだと結論した。
・欲求を意図的行為の必要条件だとする概念
・欲求を意図的行為の十分条件だとする概念
・道徳的に悪い行為だった場合に限り、欲求は十分条件だとする概念

 数に関してはおいておくとして、概念の複数性による説明は少数の反応をも説明できる点に長所がある。また、副作用効果そのものにも巧みな説明を与える。事例1と事例2の非対称性は、異なる規範的判断が異なる意図的行為概念を誘発するということで説明されるのである。

5.結論

 副作用効果は規範的考慮と「意図的行為」概念の関係について「何かしら」語っているようにおもわれる。さらに最近の研究では、規範的考慮は、意思決定、欲求、選好、弁護、選択などに関する判断、また因果性や知識に関する判断にも影響を与えることがわかり、規範的考慮の影響はより広い領域、素朴心理学一般に及ぶことが示唆されている。
 しかし副作用効果が精確には何を私たちに語っているのかという問題はいまだ残っている。こうした問いに答えるには、たとえば、素朴心理学的判断をうみだす認知メカニズムについての神経解剖学的説明や、素朴概念が行っていると思われる働きについての進化論的な(あるいは別の目的論的な)説明が必要となるだろう。不幸なことにこれまでの実験哲学で用いられてきた方法はアンケート調査であった。実験哲学者はより実験的になることが求められている。