えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

アコーディオン効果とは何か Bratman[2004]

http://www.springerlink.com/content/f6u6403123718161/

  • Bratman, M. (2004) What is the Accordion Effect?

ファインバーグによるアコーディオン効果の定式化

・ファインバーグは「行為と責任」のなかで次のような主張をしている。

  • 「スミスが何か〔A〕を行い、それによってXを引き起こした」というような主張は、スミスに対する「因果的責任の帰属」である。
  • 我々はふつう、「因果的責任の帰属」を「行為者性の帰属」によって置き換えることができる。
  • この種の「行為者性の帰属」による「因果的責任の帰属」の置き換えを、「アコーディオン効果」と呼ぶ。

(Ex. 「ピーターがドアを開けた、それによって、ポールが驚くことを引き起こした」→「ピーターはポールを驚かせた」)
・アコーディオン効果は、我々の言語が適当な因果的動詞(Ex.「驚かせる」)を持つという偶然的事実にもとづくのだろうか? ファインバーグの書き方は両義的だ。例えば英語では、人が笑うことを引き起こす〔つまり「笑わせる」〕に対応する自然な他動詞は無い。この場合、「SはAした、それによって、Tが笑うことを引き起こした」から「SがTを○○した」への置き換えはできない。
・しかし、こうした場合でも「Xを引き起こす」という一般的な動詞を使えば、「SはAした、それによって、Tが笑うことを引き起こした」→「SがTの笑いを引き起こした」と置き換えることが出来る。このような置き換えはアコーディオン効果の一例ではないのか?

デイヴィドソンはファインバーグをどう理解したか

・ところで、デイヴィドソンによるアコーディオン効果の定式化は「行為者というものは、自分の行為が惹き起こすものをすべて惹き起こすのである」という原理の形をとる。つまり、「笑わせる」事例も、適切な動詞の不在にもかかわらず、デイヴィドソンによればアコーディオン効果の一例である。
・この原理を「原理D」と呼ぼう。しかしファインバーグのアコーディオン効果理解はこうではなかった。 

アコーディオン効果の例外

・というのも、ファインバーグはアコーディオン効果に対する例外を2つ挙げている。

  • 1.ある因果的な句にぴったり対応する単一の行為語が存在していない場合。

→「笑わせる」事例はファインバーグにとってアコーディオン効果の一例ではない。

  • 2.行為を表す他動詞はあるのだが、意味をゆがめることなく置き換えが出来ない場合。

→対人因果(Interpersonal causation)の場合、つまり、ある人が別の人の行為を引き起こす場合、置き換えは普通失敗する。
Ex. Aの発言がBが指の動かしを引き起こしたとしても、我々は、「Aはその〔Bの〕指を自分で動かした(A moved the finger himself)」とは言えない。ここでは「動きの引き起こし」と「動かし」が同じではなくなっている。

(1)Aは発言し、それによってBの指が動くことを引き起こした。
     ↓ (P)  ←――これは原理Dの適用例である。
(2)AはBの指の動きを引き起こした。
     ↓ (Q)  ←――しかしこれが言えないのでこの事例はアコーディオン効果の事例ではない。
(3)AはBの指を動かした。

・以上のことからファインバーグの理解では、アコーディオン効果は特定の因果的動詞の使用を含んでいることが分かる。ここで、「特定の因果的動詞」によって因果的責任の帰属を行為者性の帰属に置き換えることを、「原理F」と呼ぼう。原理Fは言語相対性を含むが、原理Dはそうではない。
・ファインバーグは(1)→(2)においては原理Dを認めていた。しかしこれは因果的責任帰属の場面であって、行為者性帰属の場面ではない。ファインバーグの考えでは、「Xを引き起こす」という一般的因果動詞を使うにとどまっている限り、我々は「因果的責任帰属」の領域に留まり続けることになる。

「意志的介入原則(VIP)」

・ハートとオノレは次のような原則を提示した。

  • 「十分に意図的な行為は、それ以前の因果的要因と〔その行為の〕結果との間の因果的つながりを無効化する(negative)」(VIP)。

・VIPに従って上の例を考えると、Bの指の動かしは意図的行為なので、Aの発言とBの指の動かしとの因果的繋がり(P)が切断されることになる。これはおかしいとファインバーグは考える。一方でファインバーグは、Bの意図的行為は、「因果的行為者性(=行為者性の帰属)の延長(Q)を妨げる」とも述べる(これは、行為者性帰属には特殊な述語が必要だと上述の論点を踏まえないと意味不明である)。
・ファインバーグはVIPに対する反例として次のような事例を提出した。

イアーゴはある嫉妬深い夫に「妻がホーナーと浮気してる」と告げ口した。そして夫はホーナーを殺した。」

・夫による殺害は、イアーゴによって引き起こされているにせよ、熟慮の上での自由な行為であったといえる。従ってこの事例は「自由で熟慮された行為は、それ自身が引き起こされたものとして見なされない」という第一原因原理(FCP)を侵犯しているし、VIPも侵犯している。

原理Dの一般性

・しかしこの反例が成功しているとしても、「或る場合には」意図的な行為は因果的つながりを無効化するかもしれない。この点はファインバーグも認めている。そこで次のようなアイデアを考えてみる。

  • 介入の意図性は特殊な因果的動詞の適応可能性を妨げることがある(ファインバーグのポイント(Q))だけでなく、或る場合には、「行為者が結果を引き起こした」という一般的な形による因果的責任の帰属(P)をも妨げることがある。

・このアイデアが正しければ、原理Dの一般性が失われるかもしれない。次のような推論を考えよ。

(1)イアーゴは意図的にAした(所与)
(2)夫は意図的にBした(所与)
(3)BはAの因果的帰結である
(4)Bはホーナーの死を引き起こした(所与)
(5)Aはホーナーの死を引き起こした(3,4と因果性の推移性から)
(6)イアーゴはホーナーの死を引き起こした(1,5と原理Dから)

→「殺害を引き起こしたのは夫であってイアーゴは引き起こしていない」と言うことが出来ると考えるなら、この推論のどこで止まるべきだろうか。

・FCPに従えば(3)が拒否される。しかしイアーゴの発言が夫の狙撃を引き起こしたことはあまりに明らかであるように思われる。(5)を拒否するには因果性の推移性を諦めればいいが、これは基本的な観念なので否定するには高くつく。従って(6)を拒否しようと思うならば原理Dに制限を加えたくなる。
(デイヴィドソンは以上のことを良く分かっていた。

 ジョーンズは、スミスが意図的にクリフォードを撃って死に至らしめることを、意図的に引き起こす、と想定してみよう。〔……〕しかし、それでもなお、「ジョーンズの行為がクリフォードの死を引き起こした」から「ジョーンズがクリフォードの死を引き起こした」へと進んでいくことが出来るならば、〔原理D〕は正しいのである。もちろん、一方でジョーンズとスミスの両者が共に〔……〕クリフォードの死を引き起こしたと言ってもよいということを否定し、同時に他方で因果性に関しては推移律が成り立つということを承認するならば、矛盾が生ずることになる。しかしながら、こうした状況の下ではジョーンズがクリフォードの死を引き起こしたとは言えないと主張しても、なおそのような状況の下では因果性に関して推移律が成立しないのだと述べることによって、我々は〔原理D〕を保持することが出来るのである。(邦訳p.92)

 これはつまり、(6)を否定しつつ原理Dを保持したければ、因果性の推移性を否定して(5)を拒否せよと言っている。)
・ファインバーグは「因果的責任帰属」の領域にあるものと考えて原理Dを認めてたのかもしれない。しかし、彼の論点であるVIPの拒否と原理Fを二つながら保持しつつ原理Dを制限することも出来る。上のアイデアの考察と、「イアーゴはホーナーの死を引き起こした」という発言をイアーゴに対する行為者性帰属であると考えることが極めて自然であると言う点を考えれば、ファインバーグは原理Dに制限を加えるべきであった。

Atwellの挑戦

・Atwellは次のような事例と議論で原理Dに反論した。

半身麻痺のブラウン氏を夫人が長い事看護していた。ある日、ブラウン氏は精一杯の力を込めて夫人に感謝の笑みを浮かべた。夫人はあまりの喜びに心臓麻痺を起こし死んだ。

・微笑みが心臓麻痺を引き起こしたので、原理Dに従うとブラウン氏は夫人の死を引き起こしたことになる。しかし、このように言うことは、極めて僅かかもしれないが「ブラウン氏に咎がある」と示唆することである。しかし明らかにブラウン氏には咎はないので、「ブラウン氏が死を引き起こした」という言い方も避けるべきである。従って原理Dは受け入れられない。
・しかし、「確かにこの惨事を起こしたのは君だ、だが、君自身に責任があるわけではない。」というような言い方が普通になされる以上、この反例は十分説得的ではないよういおもわれる。これは悲劇の本質かもしれない。そして悲劇は起こるものなのである。

行為者性の基準としてのアコーディオン効果

・ブラットマンの見立てでは、原理Dが侵犯されていると思われるのは、行為と結果との間に別の行為者による意図的な介入がある場合である。
・デイヴィドソンは「アコーディオン効果(原理D)を行為者性の基準として」使おうとしていた。つまり、ある人の人生における出来事のうち、その結果が因果的にその人に帰属させられ、原理Dに合致するような出来事が、その人の行為である。

ある人にある出来事の結果を帰属させうるか否かを問うことは、その出来事が行為者性の事例であるか否かを調べる一つの方法である。(邦訳 p.81)

・ここで循環を避けるためには、行為者の基準のなかに行為や行為者という観念を用いないようにした方がよいだろう。したがって、もともとの無制限の

  • 原理D:行為者は自分の行為が引き起こすものを引き起こす

を、より制限されたかたち

  • 原理D':一定の関係する意図的介入がないなら、行為者は自分の行為が引き起こすものを引き起こす

のように置き換えると、「意図的介入」という観念の中に行為者性が内蔵されているので、循環しない基準を手に入れることができなくなる。もしかするとこのような懸念から、デイヴィドソンは因果性の非推移律を許すことになるかもしれないのに原理Dを擁護したのかもしれない。
・しかし、行為者性の基準として原理Dを使わなければ、無制限の原理Dを擁護する義務はないし、これまでの議論からはかえって擁護しない方に理由があると言えるだろう。