えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

胎児の痛み Derbyshire & Bockmann (2020)

jme.bmj.com

  • Derbyshire, S. W. and Bockmann, J. C. (2020). Reconsidering fetal pain. Journal of Medical Ethics, 46:3-6.


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序論

 1983年、レーガン大統領が、胎児が「痛みに反応する」可能性に言及したのを皮切りに、複数の文脈でこの可能性が指摘されるようになった。近年では、胎児の痛みの可能性は中絶論争に巻き込まれており、中絶を規制しようとするアメリカのいくつかの法律で、この可能性が引き合いに出されている。著者2人は、中絶についてまったく異なる見解を持つ。だがこうした道徳的見解が、胎児の痛みの可能性にかんする議論に干渉してはならないと考えている。
 比較的リベラルな中絶関連法をもつ高所得国では、90%以上の中絶が13週より前に行われている。以下の議論によれば、この時期の中絶では、胎児に痛みが生じる有意義な見込みはない。以下で考察するのは、13週以降の中絶において、胎児が痛みを感じる可能性である。
 この論文ではまず、(1)胎児が痛みを感じるかどうかは、治療目的での胎児への介入の場合には倫理的重要性をほとんど持たないことを指摘する。つづいて、胎児の痛みに関する(2)神経科学的証拠と、(3)心理学的証拠とを検討する。

治療目的での胎児への介入

 治療目的での胎児への介入は、1963年から始まり、劇的な発展を遂げてきている。80年代まで、手術は鎮痛剤や麻酔なしで行われていた。新生児の安全に懸念があったのと、新生児は痛みを感じられないと考えられていたからだ。しかし多くの臨床試験から、鎮痛剤や麻酔は新生児にも安全であり、また使用したほうが予後が良いことが明らかになった。そこで現在では、鎮痛剤や麻酔が用いられるようになっている。
 ただし介入にあたって、胎児の最善の利益のために、鎮痛剤や麻酔を使用しないことは理論上はありうる。このとき、もし胎児が痛みを感じられるならば、胎児は痛みを感じるだろう。しかし一般に、命を救ったり改善する誠実な努力の一貫として患者に痛みを課すことは正当化できる。したがって、胎児が痛みを感じるかどうかは、治療目的での胎児介入の場合には、あまり倫理的重要性を持たない。
 中絶の場合は事情が異なる。現在のところ中絶は、鎮痛剤や麻酔なしで行われる唯一の侵襲的な胎児介入である。もし胎児が痛みを感じられるならば、中絶は胎児に痛みを感じさせるだろう。ところが中絶は、(痛みを伴う将来的な障害を防ぐかもしれないが、)胎児の命を救ったり改善しようとするものではない。したがって、(そうした障害の可能性が(ほとんど)ない場合、)胎児にはその痛みから得られる将来的な利益が(ほぼ)ない。また多くの証拠が示すように、治療目的の胎児介入を行う医師は胎児の鎮痛を常に考慮しているのに対し、中絶を行う医師は妊婦の方に注目している。したがって、胎児が痛みを感じるかどうかは、中絶の場合には、大きな倫理的重要性をもっている。

胎児の痛みを支持する神経科学的議論

 痛みについて、次のことが広く合意されているとよく言われる。大脳皮質が発達し、脊髄や視床を介して末梢神経が大脳皮質に接続されなければ、痛みを感じることはできない、と。こうした発達は、おおむね24週以前にはあらわれない。そこで多くの医療機関や報道は、24週以前に痛みは不可能だと述べてきた。
 だが実際のところ、痛みの下限は20週だと推測する多くの論文があった。またいずれにせよ現在、24週以前に痛みは不可能だという主張は明らかに合意事項とは言い難い。まず、大脳皮質は痛みに必要ないことを示唆する研究がいくつか報告されている。また胎児の痛みの支持者は以前より、サブプレート(将来の皮質板の下に形成される一過性の構造)の活動が胎児の痛みを支えていると推測してきた。視床からサブプレートへの投射は12週に始まる。サブプレートは皮質板の発生を待って消滅するが、成熟した感覚機能に必要なニューロンの結合と活動は、皮質板に受け継がれる。すべての感覚システムは同じ発達軌道をたどり、そこにはサブプレートが含まれるため、サブプレートにおける感覚ニューロンの体性マッピングが、感覚ホムンクルスを支えるのではないかと考えられている。

胎児の痛みを支持する心理学的議論

 別のアプローチでは、「痛み」という言葉で私たちが意味するものに注目する。国際疼痛学会の定義が出発点とされることが多いが、この定義では、痛みは現象的であると同時に反省的(「私は痛いということを知っている」)だと理解される。しかしこの場合、十分成長した人間しか痛みを持てないことになってしまう。そこで、より直接的で非〔=前〕反省的な痛みの感覚(「痛い」)に注目することが重要になる。
 直接的で〔前〕反省的な痛み経験という可能性は、痛みが皮質下の活動に基盤を持つという提案に明快に合致する。ただし、直接的で〔前〕反省的な痛み経験は、痛みの本性や経験内容についての明晰さを欠く。通常、痛みを経験するさいには、痛みを感じるものとして自己が経験されるし、その経験は記憶や理解に取りまかれている。また痛みは、特定の身体部位や、脅威刺激を指示している。だが胎児の経験はこのようなものではない。
 ここでは胎児の痛みについて以下のように提案する。胎児は、ただ存在する痛みを、それが存在するがゆえに経験するのであって、それ以上の経験の理解(comprehension)はなく、単に直接的な把握(apprehension)だけがある。この経験が生じる時期は未知だが、しばしば12週より後だと推測される。
 この立場は、動物の痛みについての次の立場に非常に似ている。すなわち、動物は痛みを感じないかもしれない、あるいは何か直接的・身体的で、反省と結びつかないものを感じはするが、それを不快だとは見なさないかもしれないし、そもそも何とも思わないかもしれない、という立場である。このような痛みには道徳的重要性がないと考えることも可能かもしれない。だが、胎児や動物が〔道徳的に重要な〕痛みに近いものを感じないと決めてかかるのは道徳的無謀であり、ここでは避けたい。

胎児の痛みの道徳的含意

 以上のように、後期中絶においては胎児が痛みのような何かを感じるかもしれない証拠がある。このことを踏まえると、臨床チームと妊婦に対して、胎児鎮痛を考慮するよう奨励することは妥当だと思われる。
 ただし、この「奨励」が、中絶処置のなかに具体的にどう反映されるべきかについて、著者らの見解は一致していない。著者の一人は、中絶に対する人道的なアプローチとして、死の瞬間の胎児の利害を考慮することは可能だと考える。胎児の鎮痛が有意味かどうかは、中絶の臨床基準、胎児の週齢、関係者の良心に基づき、臨床チームと妊婦が検討できる。著者のもう一人は、第2トリメスター以後の中絶は胎児に不必要な痛みを与える可能性があると考える。そこでこの時期以降、特に末梢と脳の接続に良い証拠が認められる18週より後の中絶では、鎮痛薬や麻酔を投与すべきである。

おわりに

 胎児の痛み経験の精確な本性は不明であり、もしかすると永遠に不明なのかもしれない。しかし本論の重要な実践的成果は、後期中絶の際には胎児の鎮痛を考慮することが合理的であるという点で、著者らが同意できたことだ。鎮痛剤・麻酔の導入は新たなリスクをもたらす可能性もあるが、専門の臨床チームや妊婦はそうしたリスクを考慮しバランスを取ることができると信じる。
 全体として、証拠およびそのバランスの取れた読みに基づけば、胎児は発達中の神経系の活動によって、直接的で〔前〕反省的な痛みを、早ければ12週には持っている。こうした痛みが生じる瞬間は定まったものではない。胎児の発達は漸次的なものだし、また直接的・〔前〕反省的な痛みは12週より後でなければ不可能だとするいくつかの証拠も確かにある。ただし、12-24週において胎児の痛みが不可能だと考えることは、もはやできない。

ヒト培養肉とカニバリズム Schaefer & Savulescu (2014)

https://onlinelibrary.wiley.com/doi/full/10.1111/japp.12056

4節 カニバリズム

  • 培養肉技術が発達すると、ヒト肉を作製する可能性が出てくる。
    • カニバリズム(人肉の消費)が流行するとは思えないが、関心を持つ人はある程度いるだろう。このことから、培養肉技術はおぞましい慣行につながりかねない、という滑り坂論法を展開できる。
  • カニバリズムに対する一般的な反発を考えると、ヒト培養肉の禁止は現実的にかなりありそうだ。
  • だがまずは、人工的に作成されたヒト細胞や臓器を食べることの何がそこまで問題なのかを問うべきである。
カニバリズムの危害
  • カニバリズムの多くの事例には、「人肉を消費する」という要素に加えて、「人間を殺す」および「死体を冒涜する」という要素が含まれる。
    • 後者の2要素のために、多くのカニバリズム事例はたしかに道徳的に好ましくない。
  • だがヒト培養肉の場合こうした要素はない。
    • 製造過程で人間が殺されるわけでも、死体が冒涜されるわけでもない。
  • では、カニバリズムそれ自体(人肉の消費それ自体)は道徳的に悪なのだろうか。
  • 有罪判決が出た主な食人事件において、犯人は殺害と死体冒涜で有罪になった。カニバリズムで有罪になったわけではない。
    • そもそも、カニバリズム自体は多くの地域で合法である(アメリカではオハイオ州のみがカニバリズムを非合法化している)。人を殺して食べた人を裁くには、殺人罪があれば十分なのだ。
  • 私たちはカニバリズムに嫌悪感を抱くかもしれない。
    • だが、何かに対する嫌悪感は、それが不道徳だと考える理由にはならない。
      • ナスへの嫌悪感は、ナス消費が不道徳だと考える理由にはならない。
  • この、「カニバリズムそれ自体が悪かどうか」という論点はこれまであまり注目されてこなかった。
    • 以下では、カニバリズムそれ自体が悪いとする議論を検討する。
人間の尊重
  • Ferré (1986) は、カニバリズムは人間の内在的価値を軽視(disrespect)しているために悪だと論じた。
    • 曰く、人間には創造的で自由な能力がある。そうした能力の価値が、人間を肉としてしか見ないことによって、軽視されてしまう。
      • この議論の利点は、「本人から自発的に食べられたのだとしてもカニバリズムは悪い」という直観をうまく説明できる点にある(2001年ドイツで実際に生じた)。
  • 軽度の問題点:輸血や臓器移植目的で人体組織を合成することも、人間を単なる医療資源としてしか見ていない点で、人間を軽視していることになるのでは?
    • 応答:人命にかかわる場合、人間の軽視の禁止は解除される、と考えることができる。
      • 実際、生き残るためにやむをえず食人した事例は許容可能だと考えうる(1972年にアンデス山脈の航空事故で実際に生じた)。同様に、臓器合成も人命を救うためであれば許容可能だと考えうる。
  • 重要な問題点:Ferréの議論をヒト培養肉に適用することは困難である。
    • ヒト培養肉の製造過程では、価値を軽視される人間は存在しない。
      • 誰かから人肉を取るわけでもなければ、創造的能力を奪うわけでもない。食用にされるのは単にヒト組織および細胞である。
    • 移植目的で細胞を提供したり、他人からの提供細胞を利用することは、その人を軽視していることにはならない。〔同じことが培養肉にも当てはまる。〕
  • ヒト培養肉の作製は、特定の人ではなくて、種としてのヒトを軽視していると言われるかもしれない。
    • だがどこに軽視があるのかは明らかではない。たしかに人肉を食べることは、人間に内在的価値を認める態度を直接には含まないだろう。しかしかといって、その価値を転覆・毀損する態度が含まれているわけでもない。
  • 最初のヒト培養肉の製造には人間ドナーが必要である。だがドナーから適切なインフォームドコンセントが得られていれば、ドナーが軽視される心配もない。

移植臓器を摘出した後のヒト-ブタキメラは食べるべきである Bobier (2020)

link.springer.com

【要約者によるまとめ】

  • キメラ動物の飼育環境は、工業畜産環境よりマシである。
  • 移植臓器を摘出した後のヒト-ブタキメラを食べれば、そのぶん工場畜産から来るブタの消費量を減らせる。
  • したがって、動物に与える苦痛を最小化せよという原理に基づけば、ヒト-ブタキメラを食べるべきである。(食べてもよい、という主張ではない)
  • これはカニバリズムなのではないかという懸念がある。
  • だが今問題になっているのはヒト臓器を摘出した後のブタ肉であり、人肉を食べろと言っているわけではない。
  • たしかに、微量のヒト遺伝物質がブタ肉に混ざっていることはありうる。だが、カニバリズムに反対する議論の多くは、ヒト個体の(死)体を食べるという状況を前提しており、微量のヒト遺伝物質がブタ肉に混ざっているという今回の状況にはあてはまらない。
序論
  • 臓器提供の不足により、たとえばアメリカでは毎日20人が死んでいる。
  • この不足を補う手段として、ヒト−ブタキメラ(ヒトとブタの細胞が混在した生物)のなかで人間に移植可能な臓器を育てることが重要な可能性になってきている。
  • 臓器移植目的でのブタの遺伝的改変には様々な倫理的問題がある。中でもこの論文では、そうしたブタの肉を食べるべきかという問題をとりあげる。実際、臓器を移植したうえで残りを食用にすれば、ブタを最大限利用することができる。しかし、ヒト-ブタキメラを食べることはカニバリズムなのだろうか? あるいは、人間の尊厳に反するのか?
  • 以下では、ヒト-ブタキメラを食べるべき十分な理由が1つあるのに対して、これに反対する十分な理由は現在のところ無いことを示す。

明確化

  • 議論の前に、以下の4点〔プラス、次節の末尾から先取りした2つの前提〕を確認しておく。
    • (1) ブタを取り上げるのは、ヒト臓器の培養候補として理想的だと考えられており、研究も集中しているからである。
    • (2) ヒト-ブタキメラは胚盤胞補完法で作られるものだと想定する。
      • まずブタの胚盤胞において特定臓器の成長に必要なDNAを削除する。かわりにヒト多能性幹細胞を注入し、胚発生のなかでヒト臓器が生じるようにする。胚を母豚に移植して、出産させる。生まれたキメラは外見・行動上は通常のブタと変わらない。
    • (3) キメラを作るべきではない、肉を食べるべきではない、といったそもそも論はここではおいておく。
    • (4) キメラの精神状態がどのようなものかは現在未解決であり、ここでも触れない。
    • 移植用のキメラは近い内に実際に作成されるものとする。
    • ブタ-ヒトキメラの肉は、通常の豚肉同様に食用として安全だと仮定する。

キメラ肉を食べることを支持する議論

  1. 最小限の苦痛の原理:人は(すべてのことが考慮された上で)動物への危害が最も少ない食生活をするべきである
  2. ヒト-ブタキメラの肉を含む食事は、他の食事と比べて、動物の危害を減らす
    • キメラ動物が生育する環境は、工場畜産の劣悪な環境よりはるかにマシなため
  3. したがって、ヒト-ブタキメラを食べるべきである
  • この議論は、(1)多くの人が受け入れるだろう道徳原理(動物をなるべく傷つけない)と、(2)動物の飼育環境にかんする経験的観察に基づいており、シンプルだが強力である。以下では、ありそうな反論に応答する。
  • 反論1:動物を害してもいい
    • 前提1を否定するもの。実際、Timothy Hsiaoなどは動物には道徳的地位がないと主張している。
    • 応答1:前提1を否定すると肉食一般を肯定することになるから、当然キメラ肉食も問題ないことになる。キメラ肉だけに反対するなら、原理の否定だけでなく、追加で特別な理由が必要である(次節で扱う)。
  • 反論2:その他のいかがわしいものも食べなければいけないことになる
    • 上の議論の「ヒト-ブタキメラ」を「最近死んだ人」に置き換えると、「最近死んだ人を食べるべき」という結論が出てくる(Abbate 2019)。実際、たしかに最近死んだ人を食べれば、その分、動物への危害の総量は減る。〔しかしこの結論は受け入れがたい。〕
    • 応答2:この議論は前提1の「すべてのことが考慮された上で」を見逃している。実際、食事制限で肉を食べなければならない人は、動物への危害を最小化する必要はないだろう。同じように、人を食べてはならない十分な理由があるならば(例えば食べた人や社会に危害があるなら)、動物の危害を最小化する必要はないだろう。では、ヒト-ブタキメラを食べてはならない十分な理由はあるのだろうか、これは次節であつかう。
  • 反論3:動物への害が少ない食事は他にもあるのではないか
    • 前提2に向けられたもの。自動車にひかれた動物(Bruckner 2015)や、痛みを感じないある種の貝(Cox 2010)、昆虫(Fischer 2016)を食べることを提案する人がいる。
  • 反論4:増幅効果
    • 前提2に向けられたもの。キメラ動物を飼育するために、より多くの動物が害されることになるのではないか。つまり、キメラ肉食が動物の危害を減少させるかどうかは明確ではないのではないか。
    • 応答3&4:たしかに、他にも動物への危害の最小化に役立つ食事はあるかもしれないし、キメラには餌が必要である。だが、これらの指摘は反論になっていない。なぜなら、キメラの肉を食べようが食べまいが、作成されるキメラの数やキメラの餌の量は変わらないからだ。上の議論が言いたいのは、キメラという利用可能な肉があって、それを食べれば、動物の危害を減らせる、ということなのだ。

キメラ肉を食べること反対する議論

  • 応答2で述べたように、キメラ肉を控えるべき十分な理由があるなら、前提1は成立しない。そこでこの節では、そうした理由の候補を4つ検討する。
気持ち悪いからダメ(嫌悪要因(yuck factor))
  • キメラ肉食を控えるべき理由の第一は、それが気持ち悪いというものだ。嫌悪感は道徳において真剣に考慮されるべきだという人もいる(Kass 1998; Streiffer 2003)。
  • だが嫌悪感に訴える論法は、キメラの作製にかんする様々な議論のなかで多くの批判を浴びてきた。その幾つかをキメラ食肉に適用してみよう。
    • 嫌悪感それ自体がキメラ肉食を控えるべき理由になるか、明らかではない。ナスに対する嫌悪感は、ナス食が不道徳だと考える理由にはならない(Schaffer & Savulescu 2014)。実際、嫌悪感を重視するKassが嫌悪の対象としたもの(強姦、殺人、獣姦など)では、対象が危害を被っている。嫌悪感ではなくこの危害のほうは、たしかにこうした行為に対する反対の理由となりうる。だがキメラ肉食の場合にはこれらに相当する積極的な理由がない。
    • また、嫌悪感は誤解に基づくのかもしれない。キメラ食は人肉を食べることではないし、ヒト遺伝物質の残る肉を食べることでもない。科学者は、特定臓器以外にはヒトの遺伝物質がほとんど残らないようにできると考えている。
    • そもそも、ヒト-ブタキメラ食に人々が本当に嫌悪感を抱くかどうかも明らかではない。ヒト-ブタキメラは外見と行動はブタであり、ヒト要素を肉眼で見ることもできない。食べられるヒト個体も存在していない。
人間の尊厳に反するからダメ
  • キメラは人間の尊厳に結びついた能力を非人間に与えることであり、人間の尊厳を損なわせると論じる人がいる。この主張を踏まえると、実際に作られてしまったキメラを食べることは、人間に似た存在(キメラ)の価値を否定することであり、やはり人間の尊厳を損なう、という議論が可能かもしれない。
  • だが、臓器提供目的で作られるキメラが、人間の尊厳の根拠となるような人間的能力を発達させることはないだろう(推論、複雑なコミュニケーション、言語、抽象的思考など)。
  • たしかに、ヒトグリア前駆細胞を移植したマウスの学習能力が上昇した事例はある。しかし、まずブタとヒトでは発達に必要な時間が大きく異なり、ブタ内でヒト神経細胞が十分に発達する時間はない(Karpowicz et al. 2004)。また、両者は哺乳類として生理学の点で類似してはいるが、種の障壁は大きい(Tarifa et al. 2020)。さらに前述のように、ヒト遺伝物質の移動を最小化する有望な技術がある。もしキメラが人間に似た能力を示すとか、初期胚の段階で脳にヒト遺伝物質が多く残存していれば、科学者はそれを胚の時点で廃棄するか、あるいは臓器を採ったりはしないだろう。
カニバリズムだからダメ
  • キメラ肉にヒト遺伝物質を残さない技術に言及してきたが、残ってしまう場合もあるとしよう。この場合、カニバリズム、つまりヒト肉を食べることは道徳的に悪いという主張が当てはまるかもしれない。以下、カニバリズムの悪さを主張する3つの議論を検討しよう。
    • 人間の能力の道徳的重要性
      • Ferré (1986) によれば、カニバリズムは人間の能力がもつ価値を否定する行為であるからするべきではない。
      • だが、この主張はキメラ肉にはあてはまらない。キメラ肉の場合、消費されるのは人間の遺伝物質を微量に含むブタの肉である。価値ある能力を持つ人間が消費されているわけではない。
    • 人は食べられることを望まない
      • Wisnewski (2007) は、カニバリズムにカント的反論を提出している。私たちには理性的な行為者の目的を尊重する義務があり、その義務は当人が死んでも持続する。そしてカニバリズムは、食べられることを望まなかった理性的行為者を食べることであるから、許されない。
      • だがこの反論も、キメラ肉には当てはまらない。先程と同様に、そもそも理性的行為者なるものはここでは関係していないからだ。
    • 形相の反映
      • Lu (2013) は、カニバリズムにアリストテレス的反論を提出している。死体はもはや人間ではないものの、「生きている人間の形相」を反映しており、価値をもっている。カニバリズムはこの価値を尊重していない。
      • この反論は、質料形相論を前提としている点で説得力が低い。だがキメラ肉の場合さらに重要なのは、消費されるのは人間の体ではないという点である。食べられるのはヒト-ブタキメラの体であり、それは明らかに人間の形をしておらず、「生きている人間の形相」を反映してもいない。
道徳的警戒
  • 最後の反論は道徳的警戒(moral caution)に訴えるものだ(Koplin and Savulescu 2019)。
    • キメラ肉を食べることが許容可能かについては学者の見解の不一致がある。しかし、キメラ肉を食べないことについてはあまり不一致がない。キメラ肉を食べないことは、道徳的に見て良くも悪くもない、中立なことのように思われる。つまり、キメラ肉を食べることには道徳的リスクがあるが、食べないことは中立的である。学者の不一致や不確実性を踏まえれば、ここでは警戒の側に立って、キメラ肉を食べないほうが合理的である。
  • しかしこの議論は説得的ではない。ここまでの議論が示してきたのは、キメラ肉を食べるべき十分な理由はあるが、食べるべきではない十分な理由はない、ということだ。つまり、キメラ肉を食べないことが道徳的に中立だという仮定は誤っている。キメラ肉を食べないことは、動物の苦痛を増やすという点でやはり道徳的リスクがあるのだ。したがって、キメラ肉を食べることも食べないことも道徳的にリスクがあるため、道徳的警戒の観点から食べないことが合理的になることはない。

結論

  • 現状、キメラ肉を食べるべき十分な理由があるが、これに反対する十分な理由はない。
  • これは議論を呼ぶ主張であり、反論を歓迎する

ハイプとはそもそも何なのか:価値判断をふくむ概念としてのハイプ Intemann (2020)

www.cambridge.org

  • Kristen Intemann (2020). Understanding the Problem of “Hype”: Exaggeration, Values, and Trust in Science. Canadian Journal of Philosophy, 52(3), 279–294. https://doi.org/10.1017/can.2020.45

【要約者によるまとめ】

  • ハイプという概念は曖昧なまま流通しており、各種の問題がある。
  • 研究自体の問題である研究不正と、そのコミュニケーションの問題であるハイプを区別できる。
  • ハイプには誇張が含まれるが、あらゆる誇張がハイプと言われるわけではない。問題なのは「不適切」な誇張である。
    • 不適切な誇張にも、ポジティヴなものとネガティヴなものがある。ここでは前者を「ハイプ」、後者を「警戒主義」と呼ぶ。
  • 「不適切」と言うからには、ハイプは価値判断をふくむ概念である。
    • (1) ハイプには、科学コミュニケーションの目的にかんする価値判断が含まれる。
      • 科学コミュニケーションの最も重要な目的を妨げるとき、誇張はハイプである。最も重要な目的が何かを決めるには、発信者および聴衆のニーズや関心、その他の倫理的制約を、評価して重み付けする倫理的判断が必要である。
    • (2) ハイプには、誇張を支持する証拠にかんする価値判断が含まれる。
      • 証拠によって十分に支持されていない場合、誇張はハイプである。だが、どの程度の証拠なら十分なのかは、間違っていた場合のリスクに依存しており、その評価には倫理的判断が必要である。
    • したがってハイプは、発信者が認識的にも倫理的にも信頼できないというメッセージを聴衆に与えることになる。
  • 最終的に、ハイプは次のように理解される:
    • 特定のオーディエンスに(明示的/暗黙的に)向けられたコミュニケーションのなかで、科学のポジティヴな面を、不適切に誇張すること
  • ハイプ概念の価値的次元を無視すると、ハイプにかんする経験的研究にも問題が生じる。
    • ハイプでない事例をハイプだとしたり、逆にハイプ事例をハイプでないとしてしまう可能性がある。
  • また、ハイプ防止策にも問題が生じる
    • 単にリスクとベネフィットをバランス良く発信するだけでは不十分である。(1)、(2)の価値判断を行い、それを踏まえた発信が求められる。

1. 序論

  • 科学研究における「ハイプ」(大雑把に言えば、研究成果等の誇張)の蔓延とその悪影響が指摘されている。[2]だが、「ハイプ」という概念は十分理論化されていない
    • このため、互いに矛盾する定義が用いられる場合もある。例えば、ハイプは研究上の不正行為だとされる場合と(Begley 1992; Wilson 2019)、そうでない場合がある(Weingart 2017)。また、定義が曖昧すぎる場合も多い。ハイプの特徴として誇張が挙げられるが(Caulfield & Condit 2012; Weingart 2017)、何が誇張に相当しそれがいつ問題なのかについてはもっと洗練が必要である(一般化を行う研究はすべて誇張しているとも言える)。経験的研究でも、ハイプの同定のさいにあまりに広い/狭い方法が用いられている。たとえば、潜在的な利益が言及される頻度が、潜在的なリスクが言及される頻度より高いことをもってハイプを同定する方法がある。だがこの方法では、単にリスクの発生率や重要性が低いだけの事例もハイプに含んでしまう。
  • こうした曖昧さには、哲学的に見ても様々な問題がある。
    • 規範的に見て異なるものを「ハイプ」と一口に呼ぶことで、異なる解決が必要だという事実を覆い隠すかもしれない。逆に、ハイプ事例と認識論的・倫理的に同等なはずのコミュニケーションを見過ごしてしまうかもしれない。また、ハイプがなぜ問題なのかの説明を困難にしてしまう。さらに、各種の経験的研究が同じものを測定していない可能性も出てくる。
  • したがって、ハイプとは何なのかについてもっと明確な説明が必要である。本論文では、ハイプとは特定の種類の誇張だと理解したほうが良いと論じる。具体的に言えば、特定のオーディエンスに(明示的/暗黙的に)向けられたコミュニケーションのなかで、科学のポジティヴな/利益につながる面を、不適切に誇張すること、これがハイプである。
    • 「不適切」と言うからには、ハイプは価値判断をふくむ概念(value-laden concepts)である。そこには(1)個別の文脈において、科学コミュニケーションの適当な目標は何か、にかんする価値判断、および、 (2)その文脈において、何が「誇張」なのか、にかんする価値判断、がかかわる。

2. 科学コミュニケーションの目的

  • [3]ハイプ概念を明確化するためには、まず、科学コミュニケーションの目的とはなにか(2節)、そして、「ハイプ」という概念を使うことで、我々が精確には何を防ごうとしているか(3節)、を考えてみるとよい。
  • 科学コミュニケーションの目的は、オーディエンスと文脈によって様々である。
    • 目的のひとつは、意思決定者に力を与えることに関連する。このためにまず重要なのは、(i) 正確な情報を伝えることである。だが、正確な情報だけでは十分根拠のある意思決定につながらない場合もある。特に一般市民を対象にする場合には、(ii)アクセスしやすく理解しやすい形でのコミュニケーションがさらに必要になる。加えて意思決定者は、分野の今後の見通しについても判断したいと思っている。だが、正確な情報のすべてが、信頼できる予測に関連するわけではない。このため、(iii)予測に関連する情報を提供することも、しばしば科学コミュニケーションの目的となる。[4]さらに、科学コミュニケーションの中には、(iv)科学一般や特定の分野、技術に対する関心や興奮を呼び起こすことを目的とするものもある。最後に、多くの文脈において、(v)科学コミュニケーションは科学者と市民の間の信頼関係を促進させることを目的としている。
  • ここまで、(i)正確性、(ii)理解可能性、(iii)予測関連性、(iv)興奮の喚起、(v)信頼の醸成、の5つを例として挙げた。ここからもわかるように、科学コミュニケーションには複数の目的があり、それらは互いに関係している。
    • 実際、各目的は互いに対立する場合もある。正確性は理解可能性と相反し、また興奮の喚起には不十分かもしれない。
  • どのような目的が妨げられるかに応じて、科学コニュニケーションの失敗にもさまざまなタイプがある。このことを踏まえると、「ハイプ」にどのような種類の誤りがあるかを、より精確に見ていくことができる。

3. 「ハイプ」というカテゴリーは何を特定しようとしているのか?

  • 上で見たように、ハイプは研究不正の一種だと考えられる場合がある。
    • Wilson (2019)は、一滴の血液から複数の診断検査を行えるというある会社の主張をハイプだとしている。これは確かに、同社の技術の状態が完全に捏造されている点で、明らかな研究不正の一種だと思われる。
  • だが、研究不正とは区別された、ハイプ独自の懸念点はないのだろうか。
  • 捏造やデータ改ざんといった研究不正は、科学それ自体のインテグリティを損なうものだ。これに対して「ハイプ」という概念は、科学コミュニケーション上の問題を捉えようとしている。
  • [5] 通常、研究不正には、誰かの意図的な虚偽が含まれている。他方で科学コミュニケーションの場合、誰かを欺いたり誤解させようという意図がなくても、また虚偽の主張をしていなかったとしても、その目標が妨害されてしまう場合がある。
    • 例えば『ワシントン・ポスト』の記事「脳卒中患者が歩く、幹細胞実験にスタンフォード大研究者「唖然」」は、脳卒中患者に対する幹細胞治療の臨床試験について、その劇的な効果を伝える。また同記事と、元になった論文は、処置の安全性を強調している。だが、同研究では18人の患者のうち6人に重大な副作用が現れている。この副作用や患者数の少なさを考えると、安全性の強調は楽観的にすぎたかもしれない。しかし、同論文や記事が意図的に虚偽の主張をしたかどうかは議論の余地がある。
  • こうした事例を「研究不正」と呼ぶのがベストなのかは明確ではない。元の研究自体はより控えめな目的をもち、その限りでは適切なものだったからだ。
  • むしろこうした事例は、科学者とジャーナリストの双方による無責任な科学コミュニケーションの事例 –– 研究結果と重要性を誇張し、不当な推論や拙速な予測をするように人々を仕向けた –– と理解するのが良いように思われる。
  • [6] ハイプにかんする文献では様々な定義が用いられているが、ハイプ概念の重要な特徴は誇張である。それは、厳密に言えば虚偽ではないが、人を誤解させたり欺いたりする可能性のあるものだ。
    • 誇張されるものは、研究の前提や、特定のモデル・方法の確実性、一事例のもつ統計的な検出力、研究結果からの推論など、多種の主張や前提におよぶ。また誇張は、一定の主張だけを選択的に伝え、文脈的な事実や証拠を伝えない、という形でも生じうる。
  • したがってハイプとは、特定の理論、介入、技術的産物の利益(の証拠)を、明示的または暗黙的に、次の2つの仕方のいずれかの仕方で、誇張するものだと言える。
    • (a)その技術のリスクを曖昧にする
    • (b)今後の見込みや利益について、既存の証拠からは正当化できない推測を誘う
  • だが、すべての誇張がハイプだというわけではない
    • 科学コミュニケーションにおいては、一定程度の誇張は不可避である。
      • [7]科学的推論は帰納的であり、つねに現在の証拠を超えてより一般的な結論を導きだす。また特に市民へのコミュニケーションに際しては、単に現状の「科学的事実」の報告だけではなく、それが様々な社会的関心、実践、政策にとってどの程度重要かの分析が求められる。
    • また、技術や介入の評価にさいして、特定の利益/リスクを選択的に強調することも不可避である。
      • 限られたスペースと資源のなかで、研究やイノベーションのどの側面を伝えるかについては、いずれにせよ何らかの選択がなされなければならない。
  • したがって、強調や単純化がそれだけでハイプになるわけではない。このことは、「ハイプ」という概念を用いる時に私たちが関心を持っているのは、誇張の一部、問題ある/不適切な誇張なのだということを示唆する(4節を参照)。
  • ただし、不適切な誇張がすべてハイプと見なされるべきかどうかは、明らかではない。〔ハイプは一般に楽観的な誇張を指して言われるが〕、誇張は悲観的な方向にも向きうるからだ。
    • 一部の研究者には、悲観的な誇張もハイプに含めるものがいる(Caulfield 2016; Weingart 2017)。たしかに両者は似たような帰結(誤った信念や正当でない推論)をもたらす。ただし、楽観的誇張が「興奮の喚起」という目的のために他の目的を犠牲にするのに対し、悲観的誇張は警戒、懐疑、恐怖などの喚起を目的としている。「警戒の喚起」もまた科学コミュニケーションの目的として適切な場合があるが、興奮と警戒どちらに根拠があるかは価値判断による(4節を参照)。
  • [8]ここでは、悲観的な誇張のほうを「警戒主義」(alarmism)と呼ぶことにする。

4. ハイプと価値判断:いつ誇張は「不適切」になるのか

  • 誇張がいつ不適切になるかは、(1)その文脈におけるコミュニケーションの目的は何か、および、(2)その主張や推論を保証するのにどの程度の証拠が必要か、に依存している。どちらも価値判断を含むものである。

(1)コミュニケーションの目的

  • その文脈でのコミュニケーションの目的を妨げる時、誇張は不適切である。特にハイプの場合、問題の研究の利益/リスクにかんする十分根拠ある予測を妨げるような誇張が懸念される。これがどの程度生じるかはオーディエンスが誰かに依存する。
    • 研究者が他の専門家に向けて発信するとき(助成金の申請など)は、展望や潜在的な利益を強調することは合理的かもしれない。オーディエンス側に、そうした主張に十分な裏付けがあるかどうかを評価する能力があるからだ。他方、市民や政策決定者がオーディエンスの場合、正確性、予測関連性、信頼の醸成がより重要になるだろう。非専門家は、明示的/暗黙的な誇張に気づかず、また希望的観測をより強化してしまう可能性が高いからだ。
  • したがって誇張は、その文脈で最も重要な目的を妨げる場合に、不適切だと言える。
    • 最も重要な目的は何かを評価するためには、様々なニーズや倫理的考慮を評価し重み付けするという、倫理的価値判断が必要である。リスクについての合理的な意見の相違がある場合には、政治的な価値判断も必要になるかもしれない。
    • 倫理的考慮の例:科学者は、特定の行動の公衆衛生上のリスクについて発信する場合、人々が迅速に集合的な行動をとれるような仕方で発信する倫理的な義務があるかもしれない。

(2)十分な証拠

  • [9]証拠によって十分に支持されていない場合、誇張は不適切である。だが、予測的な主張や推論が十分支持されているかどうかの判断は、証拠が十分か否かにかんする価値判断に依存する。
    • どの程度の証拠が必要かは、受け入れた主張が間違っていた場合のリスクの大きさにかかっている。そして後者は、間違いの確率だけでなく、間違いの帰結がどの程度「悪い」かによって決まる。
  • 特定の主張の発信がもたらす社会的・倫理的影響が甚大な場合、正当化のためのハードルが上がる。
    • 例えば2020年、トランプ大統領、マクロン大統領、ボルソナロ大統領らは、小規模な研究に基づき、新型コロナの治療や予防にヒドロキシクロロキンが有効であると主張した。だがこれは、この薬の潜在的なリスクと限界を無視していた。たしかにヒドロキシクロロキンはマラリアや狼瘡の治療用に承認されているが、それはリスクを相殺するほど有益だと判断されていたからだ。結果的に、多くの国がこの薬の確保と有効性検証に多大な資源を費やしただけでなく、一部の人による過剰摂取、承認用途のための在庫の不足、他の治療法への臨床試験登録の拒否といった問題を引き起こしてしまった。


  • [10]楽観的な誇張だけでなく、悲観的な誇張が適切かどうかも、同種の価値判断に依存する
  • 具体例として、ビスフェノールA(BPA)の使用に警鐘を鳴らしたが、産業界からの反発にあった、Patricia Huntの事例をとりあげよう。
    • 1998年、Huntは、特定の洗剤で洗ったプラスチックゲージから溶出したBPAが、マウスの染色体異常を引き起こすことを発見し、BPAの危険性について積極的に発言した。これに対しプラスチック産業は、Huntは警戒主義に陥っており不必要な規制を助長すると非難した。Huntの研究は非常に限定的なもので、マウスの結果を人間に拡張できるかは疑問視された。業界は、BPAが人に毒性を持つのは極度の高用量の場合に限ることを示す研究を指摘し、現在でもBPAが人体に悪影響を及ぼした記録はないと主張している。1990年から2000年代前半はBPAの使用が広まった時期であり、哺乳瓶などにも使用されていたため、Huntは警鐘を鳴らしたほうが良いと考えたのだった。
  • Huntが警戒主義に陥っていたと言うべきかどうかは、価値判断に依存している。
    • 一方でHuntの結論は、当時の証拠に照らせばあまり支持されないかもしれない。だが、特に乳幼児にBPAが重大な影響をもたらす可能性があるのならば、その使用に警戒するのは合理的だと思えるかもしれない。


  • [11] ハイプ/警戒主義は2種の価値判断に依存するというこの理解は、さらに、オーディエンスがハイプに飲み込まれない場合でも依然としてハイプが問題であるのはなぜかを明らかにする。ハイプは、発信者の認識的および倫理的な信頼を損なわせる。
    • 実際のところ、オーディエンスはハイプを識別して無視できるという研究がある(Chubb and Watermeyer 2017)。しかしそうだとしても、ハイプは科学者への認識的信頼〔科学者が信頼できる情報の発信者であるという信頼〕を損ねる可能性がある。また信頼には、誠実さ、公正さ(integrity)、善意(benevolence)といった倫理的な次元もある。ハイプは、その発信者が、市民にリスクを課したりそのニーズを無視しているという合図となり、その誠実さ、公正さ、善意は損なわれるだろう。このことは、ハイプを実際に信じなくてもそうなのである。

5. ハイプの特定・防止への含意

  • 以上のように明確化されたハイプ概念が、ハイプを同定する経験的研究とハイプ防止の施策にどのような含意を持つかを最後に検討する。

経験的ハイプ研究

  • ハイプ/警戒主義が価値判断を含むことを踏まえると、ハイプ研究の中にはハイプ事例を同定できているかどうか不明なものがある。
    • いくつかの経験的なハイプ研究は、科学コミュニケーション文献を対象に、潜在的な利益が言及される頻度と潜在的なリスクが言及される頻度を比較するという手法をとっている。だがこの手法は、ハイプ事例を同定するさいの価値判断に注意を払っていない。例えばある大衆紙の報道がハイプかどうかは、誤りの帰結を踏まえた上で、十分な証拠に基づいて有益性が主張されているか、また、大衆紙という文脈を踏まえた上で、その科学コミュニケーションの最も重要な目的は何なのか、という問題なのである。
  • ハイプ同定の価値的な側面を無視する場合、ハイプではない事例をハイプだとしたり、逆にハイプ事例をハイプではないとする可能性がある。
    • 北米の大衆紙でのCRISPRの描写についての研究を例にしよう(Macron et al. 2019)。この研究によれば、ほぼすべての記事がCRISPERの潜在的な利益に言及している。他方で、多く(61.4%)の記事が、リスクについても言及している。そこで論文著者らは、CRISPRがハイプされているとは結論しなかった。だが、本当にそうなのだろうか。問題なのはリスクが言及される頻度ではなく、その議論のされかた(how they are discussed)である。実際、多くの記事(83%)は人間の医療と健康の文脈でCRISPRを論じているが、動物や植物に関連するリスクを論じているものは少ない(26.3%/20.2%)。しかし、CRISPRが医療応用されるのは、農業利用よりも遥かに先のことだろう。また、CRISPRの主要な懸念として挙げられているのは、「デザイナーベイビー」や人格の遺伝的改変である。これらの懸念には憶測的なものもあり、現実的な応用に伴うより差し迫った倫理的懸念(オフターゲット変異やインフォームドコンセントなど)から人々の目を逸らさせてしまうかもしれない。
  • ハイプの同定は、単に頻度の問題ではなく、より複雑な評価を必要とする難しい作業である。

ハイプ防止策

  • ハイプの同定が難しいとはいえ、ハイプを回避するために責任ある科学コミュニケーションを目指すことは重要である。
    • ハイプの懸念を受け、国際幹細胞学会(ISSCR)の新しいガイドラインは、研究者に対して「自身の研究が公共空間でどう表現されるかを監視し、[...]リスクや不確実性を過小評価しない情報資源を作製するために、[...]自身の仕事についての正確で、バランスの取れた、また責任ある公的な表現を促進する」ことを求めている。
  • だが、新技術のリスクと利益に関する議論の中では、単に「バランスの取れた」発信だけでハイプを防ぐことはできない
    • この点も上述のCRISPRの事例が示している。どのリスクとベネフィットが重要なのかについて価値判断を行い、どのリスクが深刻で差し迫っているかを評価し、特定の利益を喧伝するのに十分な証拠はどの程度かを決定する必要がある。
  • ハイプ/警告主義を防ぐには、科学コミュニケーションのすべての目標に注意を払う必要がある。
    • 発信者は、どの目的が最も重要なのかを評価し、誤りのリスクを踏まえた上でなお十分な証拠によって支持されているような主張を行う必要がある。ここには価値判断が関係しているから、発信者は価値判断や聴衆のニーズに注意を払う必要があるだろう。
  • ハイプの防止策についてはさらなる研究が必要である。
    • ISSCRが研究成果公表に求める応答性は、懸念のいくつかに対処できるかもしれない。ハイプ/警告主義は、オーディエンスのニーズや関心に無頓着な科学コミュニケーションから生じるからだ。

6. 結論

〔省略〕

倫理ハイプ:ELSI研究の誇張 Caulfield (2016)

https://onlinelibrary.wiley.com/doi/abs/10.1002/hast.612

 「科学ハイプ」(science hype) –– 研究結果の価値や近未来の応用可能性を誇張する傾向 –– に対する懸念が近年増加している。科学ハイプの問題点としては、市民を誤解させる、分野の長期的な正統性を損なう、理想的でない資金分配が起こる、技術が未熟なまま実装される、市民からの信頼が失われる、患者に害を与える、などが指摘される。こうした危害が本当に生じるのかどうかについてはさらなるデータが必要だが(誇張の懸念を誇張しないように!)、継続的な科学ハイプが問題だという点に異議を唱える人はいないだろう。

 他方、こうした科学のELSI(倫理的、法的、社会的問題)に関する研究が誇張されていないか、という点はほとんど考察されていない。科学ハイプと並んで、「倫理ハイプ」(ethics hype)が存在するとすれば、それもまた有害な結果をもたらしうるだろう。以下は、倫理ハイプの存在と影響にかんする推測である。


 ハイプは複雑な社会的現象である。Caufield and Condit (2012)は、ハイプの原因について、キャリアや論文出版への不安、研究の商業化や橋渡し研究の迅速化のますますの強調、資金獲得競争、話を面白くしたいメディアのニーズ、といった様々な圧力のパイプラインの終点に生じると推測した。

 この推測を支持する研究が増えてきている。例えば、より競争的な研究環境で仕事をする研究者の論文ほど、仮説は支持されたと報告したり(Faanelli & Ioannidis 2013)、高い効果量を報告する傾向がある(Yavchiz et al. 2012)。またこの数十年の間に、研究者が査読付き論文でハイプ的表現を用いる傾向は明らかに高まっている(Vinkers et al. 2015)。

 研究の出版後、その結論は研究機関によってさらに増幅される。生命医療研究にかんする大学のプレスリリースのかなりの部分は、結論、助言、因果的主張、人間との関連性についての推測、などを誇張している(Sumner et al. 2014)。それを一般メディアがさらに誇張する。新しい治療法が実用化される速度を過大評価する一方で(Kamenova & Caulfield 2015)、リスク、対立する証拠、研究の限界を過小評価する(Scwitzer 2013)。


 こうしたハイプへの従来の批判は、研究の「利益」の描かれかたに懸念を表明するものであった。だが、研究の「危害」のほうが誇張されることはないのだろうか?

 上述したような様々な圧力は、ELSI研究にも同様にあてはまる。橋渡し研究や商業化への圧力はELSI研究とは直接関係ないかもしれないが、ELSI研究に特に当てはまる要因もある。たとえば、正しい目的だと思われるもののために情報を歪める「ホワイトハットバイアス」と呼ばれる現象が、政策課題の研究を歪めている可能性が指摘されている(Cope & Allison 2010)。道徳的に適切だと思われるELSI政策の開発を支持するように、特定のELSI研究の結果や概念的帰結が誇張されるかもしれない。この傾向は、科学分野における楽観的すぎる見通しに対抗する必要があると思われる場合に、さらに強まるかもしれない。

 またELSIの専門家は、市民の議論を喚起したり、ELSIの価値ある大義を奨励するために、目が覚めるような「極端」な危害の例を挙げるという圧力を感じることがあるかもしれない。世論が「科学ハイプ」に支配されている場合は特にそうである(個人的に言えば、著者自身この圧力に屈してきた)。加えて、一般的な認知バイアスが、生命科学にかんする倫理的問題(認知的エンハンスメント)にかんする判断を否定的な方向に向かわせている可能性を指摘する研究もある(Caviola et al. 2014)。


 科学ハイプに並行するような倫理ハイプがある、というのは未だ推測であり、さらなる研究が必要だ。しかし、ハイプ一般を駆動する圧力にかんする新たな証拠を考えれば、この推測には根拠があると思われる。実際、倫理ハイプが、よく知られたいくつかのELSIのトピックの勃興に寄与してきたと考える理由がある。

 1990年以降、遺伝子差別が大きな注目を浴びてきた。しかしその注目の大きさに見合うほどの遺伝的差別は実際には生じていない。もちろん、こうした注目があったからこそ遺伝子差別が抑えられた、という可能性はある。だが、この分野における規制が未だパッチワーク的なものにとどまっていることを考えると、倫理ハイプの懸念には根拠があるとある程度は言えそうだ(もちろん、倫理ハイプの実際の影響の程度についはさらなる研究が必要である)。その他、クローン、遺伝子特許、遺伝子検査などにかんするELSI的懸念も、もしかすると倫理ハイプに影響されていたのかもしれない(Caulfield et al. 2013)。

 現在、ゲノム編集をはじめとして、議論を呼ぶ新たな遺伝子技術の波が来ている。これは、倫理ハイプの存在や影響について検討するのには理想的なタイミングである。実際、ゲノム編集については、その危害をより冷静に評価する必要があるという声もすでに上がっている。


 科学ハイプ同様、倫理ハイプも様々な悪影響を生じさせうる(すでに生じさせてきたかもしれない)。稚拙な政策決定、政策決定資源の浪費、ELSI研究資源の理想的でない分配、市民の誤解等である。これらはどれも、倫理ハイプの影響力をさらに拡大させるかもしれない。たとえば、倫理ハイプが市民の意識や不安を高め、それがさらなるハイプ、学会や政策決定の場での注目を生み、市民の懸念を正当なものにする(以下同様に続く)、という一種の予言の自己成就が生じるかもしれない。

 ここで著者は、誰かが意識的に、わざと、ELSI研究を誇張していると言いたいのではない。上でも述べたように、ハイプは、ほぼ無意識に働く各種の圧力や認知バイアスによって特に生じる。だからこそ対策が難しいのだ。また、ELSI研究にはもちろん大きな価値がある。しかし科学ハイプと同様、倫理ハイプにも学術的また政策的に問題があり、長期的にはELSI分野に損害を与えるだろう。

洪水説から氷河説へ Rudwick (2014)

【前回までの重要点】

  • 当時、洪水説(激変説の一種)はますます信憑性を帯びてきていた。迷子石やひっかき岩盤(scratched bedrock)がヨーロッパや北米に広く分布していることがわかり、これが大洪水の痕跡だと思われたからだ。ライエルは迷子石は漂う(drifting)氷山からの落下物だとする理論を提出したが、あまり説得的ではなかった。
巨大な「氷河期」
  • 迷子石やひっかき岩盤に関する別の説明が、[175-1] 思わぬ方向からやってきた。スイスの技師イグナス・ヴェネツ(Ignace Venetz)は、氷河の大きさ・範囲が変動することをアルプスの住人は知っていると報告した。これはモレーン(氷堆石)、つまり氷河の先端部にある石で隆起した部分でよく見られる。

  • スイスの学者の多くはこの主張を無視したが、ジャン・ド・シャルパンティエ(Jean de Chanpartier)は、これによって、ローヌ渓谷のモレーンに、引っかき傷をもつ巨大な迷子石があることを説明できると確信した。シャルパンティエはこの地域のモレーンとひっかき岩盤を広範に調べたうえで、センセーショナルな主張を行った。すなわち、ローヌ渓谷の上流部にはかつて巨大な氷河があり、それはアルプスの向こうのスイス平原、北はジュラ山脈にまで広がっていた(図7.8)。現在アルプスにある氷河は、この「メガ氷河」のごく一部でしかなかった。

  • 図7.8:シャルパンティエが再構成したスイスの氷河(点部分)。アルプスに現在見られる大きな氷河(黒部分)。
  • [175-2] この氷河はアルプスの積雪によって形成されるので、地質学的に少し前の積雪量は、現在の積雪量よりきわめて大きかったはずである。その原因は何か。シャルパンティエは他の地質学者同様、かつての地球が現在より寒冷だったとは考えなかった。一般に、かつての地球は現在より温暖で、長期的には冷えていっていると考えられていたのである。そのかわりに、アルプスはかつてもっと高く(エリー・ド・ボーモンの「隆起時代」のアイデア)、[176-1] 比較的短い時間で現在の高さに戻ったと考えた。しかし、この種の考えかたは多くの地質学者には説得的でなく、[177-1] またアルプスはいいとしても、近くに山がない迷子石の説明にはならなかった。このため、シャルパンティエの理論は慎重に疑いの目を持って見られた。

  • [177-2] だが1837年、ヌーシャテルで行われたスイスのナチュラリストの会合で、さらにセンセーショナルな主張がアガシによってなされた。 アガシは化石魚の研究では著名だったが、それまで地質学の経験はなかった。アガシによれば、地質学的に最近の過去に地球は急激な「氷河期」にあり、北半球全体(最低でも北アフリカのアトラス山脈の南まで)が、静止した雪ないし氷のシートに覆われていた。この時期にアルプスは隆起して(エリー・ド・ボーモン)氷の坂を形成し、岩はジュラ山脈の麓にまで落ちてきた。この理論はシャルパンティエの理論とは全く違うとアガシは言っていたが、それは実際正しい。迷子石は、移動する氷河によって運ばれるのではなく、静止した氷の坂を滑り落ちてくるのだから(図7.9)。
  • 図7.9:ヌーシャテル近郊のジュラ山脈麓にあるひっかき岩盤(アガシ『氷河の研究』(Études sur les Glaciers, 1840))。実際のところこの証拠は、移動する氷の中にある迷子石が岩盤にひっかき傷をつけるというシャルパンティエの理論の方によりよく当てはまる。ともあれひっかき岩盤は、迷子石やティルと共に、北ヨーロッパ及び北アメリカの広大な地域に氷河あるいは氷床があったことを示す有力な証拠になっていった。
  • [177-3]〔前述のように、〕地球は長期的には冷えていると(ライエル以外の)全員が考えていた。アガシはこの考えかたに、急激だが短い氷河期というアイデアを巧みに融合させた。すなわち地球は徐々に冷えているのではなく、段階的に冷えている各段階においては環境が安定しており、動植物がそこに適応する。この各安定期は、地球規模の気温の急激な低下により区切られる(この気温低下の原因について、アガシは曖昧であった)。これは大量絶滅が繰り返されていることを説明する。[178-1] 地球は長期的に冷えていっているので、直近の気温低下時にはじめて氷河期を引き起こすほどまでに気温が低下した。
  • アガシの氷河説(要約者作製)

  • [178-2] この壮大な思弁には懐疑的な目も多かった(フォン・ブーフ)が、関心を持って地元の調査に向かった者もいた。例えばフランスのヴォージュ山脈(Vosges)の近くに住んでいた地質学者たちは、その深い谷にかつて小さい氷河があった痕跡を多く発見した。ヴォージュがかつて隆起して沈下した形跡はないため、[179-1] シャルパンティエではなくアガシの理論を支持していると思われた。

  • [179-2] アガシは化石魚の収集のために英国に向かったが、科学者の会合で氷河期理論の説明も行った。バックランドに連れられスコットランドのハイランド地方に赴くと、かつての氷河の痕跡を広範囲に発見した。また、氷はスコットランドの低地にまで広がっていたと主張した。これにはライエルも一瞬納得したが、すぐにより穏健な立場に戻った。高地の氷河はまだしも、低地の氷河の形成には地球規模の寒冷化が必要になる。これは厳密な斉一性に反する。[178-3] 同様に、激変説論者を含む多くの地質学者も、「バックランド-アガシ普遍氷河」(コニベアが冗談で命名)を信じることは出来なかった。

  • だが、北ウェールズなどその他の山地にもかつての氷河の痕跡が発見され、何らかの「氷河期」の信憑性が高まってきた。この時期は、ライエルの「更新世」とおおむね同一視された*1。アガシは『氷河の研究』末尾に、より過激な、氷河は熱帯地方まで及んでいたとする説(現代で言う「スノーボールアース」説)を再掲したが、この本は主にアルプスの氷河の記述で占められていたため、現在の氷河の活動を知らしめるものとして評価された。

  • 結局地質学の定説は、穏健な「氷河説」とライエルの漂流理論を組み合わせたものに落ち着いていった。[180-1] これまで「大洪水」の証拠だと思われていたものは、地球がより寒冷であったという観点から再解釈され、まるごと活用された。こうして洪水説は氷河説に変身したのである。

  • [180-2] 氷河説は、地球はゆっくり冷えてきたと考えた大多数の地質学者だけでなく、地球は常に安定状態にあると考えたライエルにとってもまったく想定外であり、それ以前の地質学的同意を揺るがすものだった。この説によって擁護されたと感じる人がいたとすれば、それは激変論者だろう。なぜなら氷河説は、地球史はまったく偶然的で予測不可能だという、激変論者が強調していた感覚を強めるものだったからだ。この頃までには地球の歴史と人間の歴史の類比は当然のものになっており、地質学者もあまり使わなくなっていたが、氷河説が確認したのはまさにこの点だったのだ。地球の歴史を再構成するために、地質学者は歴史家のように思考しなければならない。このことのさらなる含意を次の章で検討する。

*1:第三紀のなかで最も新しく、寒冷地に生息する貝の化石が発見される層/時代。もともと洪水があった時代だと考えられていた。を参照。(要約者注)

アウトサイダーとしてのライエル Rudwick (2014)

【要約】

  • ライエルは地質学会の新星として現れたが、プレイフェア、スクロープ、ハットンらの影響をうけ、またバックランドが象徴する国教会への反感もあって、当時の誰よりも厳格な斉一説を提唱した。
  • このことは確かに地質学者の同意を大きく揺さぶったが、斉一説と激変説の対立はライエルによって戯画化されている。多くの激変論者も、現在因の重要性や、太古の時間の長さは認めていた。真の争点は、現在と同じ強度の現在因で、すべての現象が説明できるか否かにあった。
不穏なアウトサイダー
  • 本書はここまで、チャールズ・ライエルに言及してこなかった。ライエルは、「地質学の父」、ダーウィンの進化論を準備した人物等々として名前はよく知られているが、より歴史的な仕方で評価されるべき人物である。

  • [163-4] 若きライエルは地質学会の新星だった。バックランドの講義に感銘を受け、ロンドンで弁護士としての訓練を受けつつ地質学会に入会し活動を始めた。『クォータリー・レビュー』誌へ寄稿した論文では、最新の地質学的発見・アイデアを概観し、地球史について主流の有向説を説いている。[164-1] だが、ライエルはプレイフェアの「現在因」の考えにも感銘を受け、現在因では太古の「革命」を説明できないとしたキュビエは早急だったと確信するようになっていった。コンスタン・プレヴォ(Constant Prévost)によるパリの第三紀層の説明や、自身でのスコットランドの湖の観察を経て、淡水性の地層は今日と同じ条件のもとで形成されたと納得し、中央フランスの死火山は過去の連続した噴火によって形成されたと見るスクロープ(George Poulett Scrope)に賛同した。
  • 図7.4: スクロープ『中央フランスの地質学』(Geolog of Central France, 1827)の有名な文。「時間! – 時間! – 時間!」現在観察可能な過程による地質現象の説明に、膨大なタイムスケールがどういう意味を持っているかを地質学者たちは理解していない、という信念が表明されている。
  • [165-2] またライエルは、中央フランスには最近の大洪水の形跡はないとスクロープに説得され、バックランドの洪水説へ疑念を抱くようになった。とくに、この洪水が聖書の洪水と同定されている点には懐疑的だった。この疑念は、オックスフォードが体現する、国教会の政治・文化的権力への反感によって強められた。そしてライエルは、洪水のみならずあらゆる「激変」を排除しようと企て、[165-3] ヨーロッパで大規模な地質調査を行った。

  • [165-4] ライエルは、当時進行中だった英国の政治改革と地質学の改革〔のタイミングを〕合わせようと決め、すでにフィールドにいる段階で、マーチソンに自身の本の構想を伝えている。[166-1] それは2つの根本的な「推論原理」に基づく。第一は「我々が振り返ることのできる最も古い時代から〔今に至るまで〕、現在作用しているもの以外の原因が作用したことはない」。これは当時の常識よりはるかに厳格な現在主義の原理である。第二は「(現在の過程が)、今とは異なる大きさのエネルギーで作用したことはない」。この2原則を一貫して適用すれば、地球の歴史についてはハットンの定常状態システムのようなものを採用することになるとライエルは考えていた。それは「絶対的斉一性」に基づくシステムであり、全体的な方向性も例外的な激変も持たない。

  • [166-2] 調査から帰ったライエルは、この種のシステムを確立するために『地質学原理』全3巻を書き上げた(1830–33)。本書は太古の痕跡のすべてを「現在作用している原因」から説明しようとしており、最初の2巻はこうしたプロセスが史料の残る人類史の範囲内で与えた効果の包括的な目録になっている(ドイツの公務員・歴史家カール・フォン・ホフ(Karl von Hoff)の資料を大いに活用した)。そこでは、変化は周期的であり、長期的に見れば地球は定常的であった。本書の扉絵は意外にも古典期の遺跡であるが、これは、地球の定常状態を人類史のスパンのなかでミニチュア的に示すものであった。

  • [167] 図7.5: 『地質学原理』第一巻(1830)の扉絵。 ナポリ近郊の遺跡セラピス神殿の柱には、海の軟体動物によって侵食された跡がある。つまり、古代ローマから現代までのあいだに、柱が立っていられるほどゆっくりとしたペースで、土地が一旦沈下して元に戻った。これは、地球が定常的な動的平衡状態にあるというライエルの解釈のミニチュア版である。
  • [166-3] 最初の二巻が与える [168-1] 「地質学の文字と文法」により、第三巻では地球の歴史の史料が書かれた自然の「言語」を解読できる(ヒエログリフ解読がこのメタファーを鮮烈なものにした)。ライエルは観察可能な現在から観察不可能な過去ヘ向かって、地球の過去を遡及的に再構成する。この戦略を例証するのに、最も近い過去である第三紀が特に注目される。この時代の最良の記録は豊富な貝の化石である。これらのうち、現生種の化石を多く含むほど新しい層だとして、ヨーロッパ中の第三紀の地層が年代順に並べられる。第三紀内部の各時期の名前はヒューウェルから借りている。すなわち、始新世(Eocene: 最新(=現生)種の始まり)から中新世(Miocene: 比較的最新)を経て、鮮新世(Pliocene: 完全に最新)に至る。

  • [168-2] 第三紀で一番古い地層(始新世)と第二紀で一番新しい地層はまったく異なっている。これは〔中間の〕化石が保存されていないことによるとライエルは解釈するのだが、注目すべきなのは、化石未保存の期間は第三紀全体と同じ長さだという主張である。この驚くべき推論は、変化の速度は統計的に一定という主張から出てきたものであり、「絶対的一様性」の原理をよく示している。またこの主張は、[169-1] 他の地質学者の想定とは異なり、化石記録は生命の歴史の完全な記録からは程遠いということを含意してもいた。[169-2] 続いて第二紀が簡単に検討された後、地球の歴史に関するモデルの要約で本書は締めくくられる。すなわち、記録される限り、あったのは定常的ないし周期的変化であり、全体的な方向性も例外的な激変もなかった。

激変対斉一
  • 当時のほぼすべての地質学者は、徐々に冷却される地球と「進歩」する生命という有方向モデルを採用しており、そこには現在因を強調するプレヴォやスクロープも含まれていた。この確信を説得して取り除くためにライエルは骨を折る必要があった。化石記録の断片性や絶滅哺乳類の存在など多くの論点についてライエルは自身の観点から説明を与えたが、[170-1] 最も信じがたいと思われたのは、巨大爬虫類の時代がいつか戻ってくるだろうとライエルが真剣に考えていた点であった。

  • [170] 図7.6: デ・ラ・ビーチの風刺画(1830)。「イクチオサウルス教授」が、人間の化石を自分たちより下等な動物の痕跡として解釈して講義している。未来にジュラ紀の爬虫類が戻ってくるというライエルの考えを揶揄したもの。
  • [170-2] 地球史にかんする根本的に逆張りの解釈が現れたことで、地質学者たちの同意は大きく動揺した。ヒューウェルは当時の激しい宗教論争*1をほのめかしつつ、地質学者が二つの宗派に分断されていると述べた。すなわち、ライエルの属する少数排他的な「斉一主義者」(Uniformitarian)と、[171-1] その批判者で多数派の「激変主義者」(Catastrophist)である。ただし後に誤解されてしまったが、この時点では両宗派ともいわゆる現在主義を支持していた。違いはただ、現在の強度の現在因で太古のすべてを説明できるかどうか、という点にあった。同様に、地球のタイムスケールについても論争はなかった。ただしライエルは、レトリックとして、批判者は時間を短く想定しているとよく主張していた。

  • コニベアは、そもそも長い時間だけでは有向性を示す証拠を排除できないと指摘し、[171-2] セジウィックはライエルが弁護士の言葉で喋りすぎていると不満を漏らした。だが結局、この論争は実質的には引き分けだった。たしかに多くの地質学者は、ライエルによって現在因の力をよりよく理解し、激変の一部は徐々に起こったかもしれないと認めた。しかし、地球を定常的なシステムと見ることには断固反対した。実際、地球の有向性・歴史性を示す証拠がますます集まっているように思われた。またいずれにせよ、この論争は英国に限られたものだった。プレヴォは[172-1]『地質学原理』を仏訳しようとしたのだが、七月革命に気を取られ実現されなかった。その後各国語に翻訳されたのは現在因の目録部分〔1-2巻〕で、これは確かに、異常・例外的な出来事に軽率に訴えないように各地の地質学者を促した。他方で定常的な地球の歴史という考えは『地質学要綱』(Elements of Geology, 1838)にまとめられたが、これは国内でも国外でも注目されなかった。

  • [172-2] ライエルの『原理』は雄弁に書かれていたため、英国では教養層でも地質学者とほぼ同様に理解できるものだった。大衆が本書のなかで最も感銘を受けたのは、地球の膨大なタイムスケールについての説得力ある証拠と、「聖書的」著者にたいする軽蔑であった。この2点はもちろんライエルと他の地質学者の合意点だったのだが、ライエルの巧みなレトリックにより、真に科学的なのは斉一主義であって激変主義者は「聖書的」著者とほとんど変わらないという印象が生じてしまった。

  • [172-3] 逆説的だが、激変の最も説得的な事例は、太古ではなく現在に近いところにあった。「洪積層」(diluvium)と呼ばれる謎の表層堆積物は、現在に形成されたものにも太古に形成されたものとも似ていなかったのだ。このため、地質学的な意味での洪水なるものが、聖書の洪水と同定されたのも無理なかった。しかし、ヨーロッパ各地の堆積層のさらなる調査により、これらの堆積物は聖書の洪水よりははるかに古いこと、また洪水は複数回起こったかもしれないことがわかってきた。セジウィックや[173-1] バックランドもこの点では自説を修正した。ライエルは、これで自身の批判者は地質学と聖書の出来事の関連をすべて放棄せざるを得なくなったと考えた。だが、洪水物語を人類史初期の局所的な出来事のかすかな記録としつつ、それ以前の地質学的洪水を説明する必要がある、と言い続けることもできた*2。それどころか、上述したように、迷子石やひっかき傷のある岩盤(scratched bedrock)をヨーロッパと北米で広く追跡できるようになったために、洪水説はますます信憑性を高めていった。
  • [173] 図7.7: 19世紀ヨーロッパに広がる「洪水」の流れの図(ラドウィック作)。迷子石や傷のある岩盤などの証拠に基づいている。各事例は各国の地質学者によって記載されており、今研究の際立った国際性がわかる。これらの事例はすべて、後には更新世の「氷河期」の巨大な氷床の痕跡であると解釈し直された。
  • [173-2] ライエルは、地質学的洪水の証拠なるものに別の説明を与えるために、新たな気象理論を持ち出した。気候は緯度だけでなく大陸の配置や海流によっても変化する。そこで、もし現在のヨーロッパがメキシコ湾流の暖流の影響を受けていなかったならば、北極圏の氷山は現在よりもずっと南にまであったはずである。そしてもし現在よりも海面が高かったならば、氷山が溶けたさいに、そこに載っていた迷子石が、現在のヨーロッパの低地全体に落ちたかもしれない。この説明は、しかしアルプスのような高地で発見される迷子石には適用できないし、傷のある岩盤、ティル、氷成粘土が広範に見られることを説明できない。しかしライエルは、すべての迷子石を漂う(drifting)氷山からの落下物と解釈し、堆積層全体を「漂流」堆積物と呼んだ。こうしてライエルの「漂流」理論は、最近の過去からあらゆる「激変」の気配を消し去り、全体的には定常的な気候の「斉一性」を確保したのだった。

  • [173-3] 漂流理論は、英国の最も新しい第三紀層〔=鮮新世の中で最も新しい部分〕に、寒冷地域にのみ生息する貝の化石が発見されたことで一定の支持を得た。ライエルはこの地層を特に更新世(Pleistocene: 最も新しい)と名付け、鮮新世の残りの部分を改めて「鮮新世」と定義しなおした。これは一見些細な名称変更だが、洪水時代とされているものを第三紀の通常の一部とすることで、地質学的に最近に「激変」があったことを暗に否定するものであった。ただし、漂流理論は十分に説得的でなく、多くの地質学者は洪水説を支持し続けた。

*1:オックスフォード運動のこと(要約者注)

*2:聖書的洪水と地質学的洪水の同一視はできなくなったが、地質学的洪水それ自体を否定する必要はなく、それを説明するために激変に訴えることも可能だった、ということ。(要約者注)