えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

ケアードのトレンデレンブルク批判 Caird (1889)

archive.org

  • Edward Caird (1889). The Critical Philosophy of Immanuel Kant. Vol. 1. Glasgow: James Maclehose & Sons
    • 第1巻 純粋理性批判
      • 第2章 感性論
        • カントのジレンマを抜け出そうとするトレンデレンブルクの試み(pp. 306-307)

 トレンデレンブルクは、空間と時間は精神のアプリオリな性質である(主観的であると同時に、それは(現象だけでなく)物自体についてもあてはまる(客観的である)と指摘し、カントがこの可能性を見逃していると論じている。

 だがカントは、この「第三の道」を見逃しているのではなく、むしろ議論の必然性によって排除しているである。

 カントの議論は次のように進んでいる

  • 仮定:個々の対象はそれがもたらす感官の変容を通して与えられる。
  • 議論1:時間や空間は、対象がもたらす感官の変容ではなくて、感官自体の本性に由来する。
  • 議論2:こうした時空のアプリオリな主観性によってのみ、対象への普遍的で必然的な法則の適用が可能になる。

 もし時空が物自体に属する(超越論的に実在的)場合、それについての知識は、実際に知覚されている個物にしか当てはまらないことになる。つまり、普遍的・必然的な知覚の原理ではなくなってしまう。時空の超越論的実在性は、時空の経験的観念性を含意してしまうのだ。

 トレンデレンブルクが主張するように、時空が超越論的に実在的であるだけでなく経験的にも実在的だとすると、物自体のありかたとそれが知覚される主観的形式に予定調和が成立していることになる。だが、この主張は意識の範囲を超えており無意味である(『プロレゴメナ』§13, 注2)。

フェルドマンの人生満足説批判 Feldman (2010)

  • Fred Feldman (2010). What is This Thing called Happiness? Oxford University Press.
    • 5 Whole Life Satisfaction concepts of Happiness


※要約者により大幅に再構成しています

様々な人生満足

 幸福(Happiness)を人生に対する全体的な満足(Whole Life Satisfaction: WLS)として捉える見方〔※以下「WLS説」〕は、様々な哲学者によって提案されてきた(Brandt, Kekes, Nozick, Sumner, Tatarkiewicz, Telfer, von Wright)。この説は現在、哲学者にも心理学者にも人気がある。

 WLS説は非常に多様な仕方で定式化されている。少なくとも6つの次元での区別が考えられる。

  • (a) 評価の本性

 WLSの評価は、様々な情報を考慮して下される判断でなければならないと考える人がいる。他方、人生全体に良い感情を抱いて(feel good)いればそれで十分だと言う人もいる(Telfer)。両方の要素を含むと言う人もいる(Brandt, Sumner)。

  • (b) 評価の局面

幸福であるためには、人生の全ての局面(aspects)について満足している必要があると考える人がいる(Tatarkiewicz)。他方で、人生の重要な局面に満足していれば十分(Brandt, Sumner, Telfer)、さらには人生の何らかの局面への満足でも十分だと考える人もいる(Sumner)。

  • (c) 評価は実際のものか、仮想的か

 幸福であるためには、人生に満足しているという判断を実際に下す必要があるという立場がありうる(現実主義)。これに対し、人生に満足しているという判断を下すだろうという仮想的状態にあればそれで十分だという考え方(仮想主義)もありうる(Tatarkiewicz)。

  • (d) 時間

 幸福であるためには、過去、現在、未来のすべてを含む人生の時間的全体について満足している必要があるとする人がいる(Tatarkiewicz)。これに対し、現在の時点の人生について満足していれば良いという考え方や、過去および現在の人生について満足していれば良いという考え方もありうる。

  • (e) 主観的か客観的か

 人生に現実に起ったことと、当人が起こったと思っていることを区別することができる(Tatarkiewicz)。幸福であるためには前者について満足している必要があるという立場(客観主義)と、後者に満足していればいいという立場がありうる(主観主義)。

  • (f) 認識的要求の強さ

 私たちは人生に生じた様々なことについて、詳細な理解を持っている場合と、ごく表層的な理解しかしていない場合がありうる。幸福であるためには前者のような詳細な理解のうえでの満足が必要だという立場と、後者のような表層的な理解の上での満足でも十分だという立場がありうる。

 これが6次元は互いに独立であり、組み合わせることで無数のWLS説を生むことができる。しかし、いずれの形式でもWLS説は誤りであることを以下で示す。

2つの予備的問題

 WLS説にはまずもって2つの問題がある。

【不安定性の問題】
 ある人が自分の人生は理想的だとある時点では判断するが、別の時点ではそう判断しない、ということがありうる。だが、ある人が幸福な人生を送っていたと同時に送っていなかった、というのは矛盾である。

※注12: Dienerらは、人生満足尺度が通時的安定性をもつことをこの尺度の望ましい性質だと言っている(Diener et al. 1985)。だが、幸福度が人生を通して安定していると考えられる独立の理由がないかぎり、この性質が望ましいとは考えがたい。

【はかなさ(lability)の問題】
 経験的研究によれば、WLSに関する人の判断は、判断時の一見どうでもいい(trivial)事柄や文脈に影響される。例えば、天気、部屋の内装、質問者の魅力、小銭を拾ったことなどである。だがこれらの影響を受けた判断は間違っているように見える。直前に小銭を拾っただけで人が本当に人生全体により満足するようになるとは考えがたい。

 しかしこれらの問題は真の問題ではない。理論を十分明確化してやれば防げるからだ。ここでは、「時点人生満足」(WLS at a moment)と「期間人生満足」(WLS during an interval)を区別しよう。ある時点でのWLSである「時点人生満足」を、一定期間で(何らかの形で)集計したものが、その期間の「期間人生満足」だと考えることができる。

 このとき、時点によって異なるWLS判断が下されるという【不安定性の問題】は問題ではなくなる。異なる時点において「時点人生満足」が異なることは矛盾ではないからだ。また【はかなさの問題】についても、どうでもいい事柄に影響を受けたWLS判断を「間違っている」とする必要はない。人はその瞬間には確かに多少幸福になったのだと考えてもとくに問題はないからだ。

現実主義か仮想主義か

 より重要な問題は、「時点人生満足」をどうやって決定するかだ。この点について、異なるバージョンのWLS説は異なる回答を持っているが、ここでは次のように議論する。

  • いかなるバージョンのLWS説も、「現実主義」か「仮想主義」かのいずれかである(前提)
  • そして、どちらの場合でも、幸福をWLSとして捉えるのはもっともらしくない。
  • したがって、WLS説は全体としてもっともらしくない。
現実主義の問題

 まず、WLSの評価は実際の(a)判断だという見解を考えよう。もしこの判断が人生の(d)すべての時間にかんして、(b)あらゆる局面について、(f)非常に詳細な理解のうえで、下されるべきものであるならば(Tatarkiewiczはこの見解をとっている)、そうした判断が現実的に不可能なことは明らかである。この場合、いかなる人も幸福ではないことになってしまう。
 
 もちろん、判断への要求は緩めることが出来る。例えば、WLSの判断は人生の(d)全ての時間にかんして、(b)重要な局面について、(f)曖昧な理解のうえで、下されるべきものだとしよう。しかしこのように制約を緩めても、幸福であるために実際の判断が求められていることには変わりない。人間関係も仕事もうまく行っており、財産も十分ある人がパーティで楽しく歌っているとする(このような「浅薄な」例が気に入らない場合は適当な例に変えてよい)。この人は自分の人生について判断などしていない。しかしまさにこのために、現実主義的なWLS説によれば、この人は幸福ではないということになってしまう。だがこれは明らかに直観に反している。人は、自分の人生全体について何も判断していなくても、幸せな人生を送れるはずである。

 WLSに必要な実際の評価は判断ではなく、より(a)情動的なものだとする見解ではどうか。たとえば、人は(ある時点で)これまでの人生に喜びを感じている程度だけ(その時点で)幸福であるという見解(Telfer)を考えよう。しかしこの見解でもまだ要求過多である。何かに喜びを感じるには、少なくともそれについて考えていなければならない。だが、たとえば何かに没頭している人は人生について考えていない。人は人生全体について考えたり喜んだりしていなくても、幸福な人生を送れるはずである。

仮想主義の問題

 では仮想主義ならばどうか。これはつまり、ある人のある時点での幸福度は、その時点で人生全体について下されるであろう判断に応じて決まる、という見解になる。ここでは、人生満足をどのように尋ねるかという問題は脇におき、ある人の時点人生満足の真値が得られると仮定しておこう。だがこの値は幸福とどのような関係にあるのだろうか。

 自分の人生や理想について反省することは、人の情動状態にネガティヴ・ポジティヴ両面で影響を与えうる。上述のパーティ参加者は、もし人生満足について反省すれば、おそらく落ちこんだ状態になるだろう。したがって、この人の仮想的判断が与える時点人生満足度は、第三者の観察者が与える人生満足度よりも低く出るだろう。逆に、常に陰鬱な状態にある人が、人生や理想について聞かれた場合、自分の人生はそう悪いものではないと判断することもありうる。このように、仮想的な人生満足判断から得られる値というのは、私たちが通常「幸福」と呼ぶものにあまりうまく対応していない。

 哲学者の中には、人が最善の認識的理想状態において判断する人生満足度が幸福を定義すると考える人がいる。ここで、自分の人生が置かれた状況について無知であるがゆえに(言葉の普通の意味において)非常に幸福であるような人がいるとしよう(「無知は幸福である」("Ignorance is biliss"))。認識的理想状況からの判断では、この人は「不幸」だということになるだろう。しかしこの結論は、私たちが問題としたいこと〔(言葉の通常の意味における)幸福とは何か〕とは関係がない。この人が幸福なのは事実であり、そしてそれは無知に部分的に依存している。従って、仮想主義的なLMSが生み出す幸福度は的はずれなのである。

古代ギリシア・ローマ文学における自然描写(および『コスモス』第2巻の概要) Humboldt (1847)[1849]

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※注はすべて要約者による

【目次】

第2巻の全体像

  • 第1部 自然研究への誘因
    • 外界が想像力に映し出すイメージ
    • I. 自然描写
      • 異なる時代・人種において自然の観照は異なる感覚を引き出したこと
    • II. 風景画
      • 風景画の自然研究への影響
      • 植物観相学のグラフ的表現
      • 異なる地域における植物の植生の特徴
    • III. 熱帯植物栽培
      • 植物の諸形態の対比と類似
      • 植生の観相学と特徴から喚起される印象
  • 第2部 宇宙の自然的観照の歴史
    • 自然の全体としてのコスモス概念の漸次的発展と拡張の主要原因
    • 宇宙の自然的観照に影響を与えた重要な瞬間
      • 1. 始まりとしての地中海沿岸
      • 2. アレクサンダー大王下のマケドニア人による遠征
      • 3. プトレマイオス朝における宇宙の観照の拡張
      • 4. ローマ人の世界統治
      • 5. アラブ人の侵入
      • 6. 大洋発見の時代
      • 7. 天に関する偉大な発見
      • 8. ここまでの振り返り

第1部 自然研究への誘因

外界が想像力に映しだすイメージ、自然の詩的描写、風景画、地球表面の様々な部分の植物観相学を特徴づけるような異国の植物の栽培

 [370-1] 我々は今や、対象の領域から感覚の領域に進む。この内面世界の探求にあたっては、自然的対象の観照 [contemplation] を、自然への純粋な愛を喚起する手段として捉え、自然研究や遠方旅行を強く動機づける原因について探求する。自然の観照への誘因には3種類のものがある。すなわち、動植物を生き生きと描写する(1) 文学および [371-1] (2) 風景画、そして、(3) 熱帯植物の栽培と地元の植物との比較、である。

 [371-2] 偶然に喚起された自然の印象が、その強力な力によって、子供の人生全体を決めてしまうこともある。例えば北半球では見えない南十字星*1を見たいという欲望や、絵入りの聖書に描かれるヤシやレバノンスギなどは、旅行への最初の衝動を与える。フンボルト個人のことを言えば、南国に行きたいという最初の、そしてずっと変わらない欲望を喚起したのは、[372] (1) ゲオルク・フォルスターの『南洋諸島の記述』(Schilderungen der Südsee Inseln)、(2) ガンジス側のほとりを描いたウィリアム・ホッジの絵画、(3) ベルリン近郊の植物園にあるドラゴンツリーであった。ただし、(1)–(3)のような誘因が力を発揮するのは、近代的な文化のなかにおいて、かつ、精神が一定方向に発達しこうした印象を受け入れやすくなっている個々人に対してのみに限られる。

I. 自然描写:異なる時代・人種において、自然の観照は異なる感覚を引き出したこと

古代人による自然描写

 古代人は自然の観照からくる喜びを知っていたはずなのに、その感覚をあざやかに表現することは現代と比べて少なかった、とよく言われる(シラーの引用。またGervinus, Adolph Becker, Eduard Müller)。[373-2] これは確かに一理あるが、ギリシアとローマにしかあてはまらない。自然の感覚は古代のヘブライ人やインド人の多くの詩にあらわれている。つまりこの感覚は、異なる出自(セム系とインドゲルマン系)の民族の中に存在していた。

ギリシア人の場合

古代ギリシア詩の一般的傾向

 [373-3] たしかにヘレニズム期には、個別具体的な自然描写はおまけ程度にしか現れない。ギリシアの芸術においては、すべてが人間の生活の領域に集中しているからだ。[374-2] デルフォイでは、おそらく冬が終わった喜びを表現するために、春の歌が歌われた。冬の自然の記述はヘシオドス『仕事と日』にもある(おそらく後代の加筆)。『神統記』では、ポセイドンの領土の自然描写があるが、[375-1] それは擬人化されている。こうした擬人化の傾向はあらゆる古代の詩人に見られる。

 [375-2] 文学としての自然描写がないからといって、古代人には自然美への感受性が欠けていたとか、創造的能力が古代ギリシア人にはなかった、などと考えるべきではない。むしろ、自然の魅力によって呼び覚まされた感情を言葉で表現したいという切迫した衝動がなかったのである。最初期の詩的精神は、むしろ活動的生や内的情動に向けられており、その最も高貴な方向性は叙事詩と抒情詩だった。その後、教訓的な詩(エンペドクレスの『自然について』など)を通じて修辞的要素が広がっていき、それに伴い教訓詩のほうの単純さや高貴さも徐々に失われていった。[375-3] 以上の流れを説明するために以下では個々の例を見ていこう。

叙事詩・抒情詩の場合

 ホメロスの場合、叙事詩という性格上、自然の最も魅力的な描写でさえ、単に二次的に描かれるに過ぎない。『イリアス』には、羊飼いが星の輝く夜の静けさのなかで遠く山流の音を聞くという描写がある(viii, 555–559)。『オデュッセイア』では、岩だらけのパルナッソスの寂しさを描く崇高な描写と、キュクロプスの土地にあるポプラの楽しげな描写が対称的である(xix, 431–445)。

 またピンダロスは、春を祝うディテュランボスのなかで、「花のほころびが地を覆うとき、アルゴス・ネメアでは、ヤシの新芽がさわやかな春を告げる」などと歌い、また「天の柱、不朽の雪を養う」エトナ火山について歌う。だが、すぐに自然の話から離れ、英雄や戦争勝利の賛美に移ってしまう。

 [376-2] ギリシアでは、他の国とは異なって、陸と海が密接に結びついているために、独特の魅力をたたえた風景があることをわすれてはならない。[377] 古代ギリシア人のように知的で高度な才能を持った人々が、たとえば地中海の入り組んだ海岸に見られる森で覆われた崖であるとか、時間や季節に応じて変わる地表と大気の相互作用、また植物相などについて、無関心だったとは考えられない。実際、ギリシアでは植物の世界は英雄や神々などと神話的関係にあると考えられていた。神々は、自分と結びつきの深い植物に傷を与えた人に復讐すると考えられていた。このように、古代ギリシアにおいて想像力は植物に命を吹き込んだ。だが、古代ギリシア人の精神活動が持っていた方向性は、自然の景色の描写の発展にはあまり寄与しなかった。

悲劇

 ただし時として、悲劇作家の中にさえも、激しい怒りや悲しみのただなかにおいて、自然美に対する深い感覚が生まれている。たとえば例えばソフォクレス(c. 496 – c. 405)の『オイディプス王』でオイディプスが〔真実を知り放浪したすえに〕コロノスの森に近づくシーンでは、安らかな自然の様子(ナイチンゲール、青々としたツタ、スイレン、クロッカス、オリーブ)が描かれ、オイディプスの苦痛のイメージが高められている(682–706)。[378-1] またエウリピデス(c. 480 – c. 406)の『クレスポンテス』(断片)には、「メセニア*2とラコニア*3の牧草地は、穏やかな空の下で、千の泉と美しきパミソス河*4の水で潤う」といった記述もある。

牧歌から記述優位の時代へ

 [378-2] シチリアに発する牧歌は移行的形式の詩で、風景よりはむしろ小規模な人間の営みを描いている。しかしそこには独特の哀愁があり、あたかも人間の胸中では、風景に喚起された深い感情とある種のメランコリーが常に結びついていたかのようだ。

 [378-3] 本来のヘレニズム詩はギリシア人の自由とともに失われ、詩は徐々に記述的、教訓的、教育的になっていった。アレクサンダー大王(356 – 323)の時代には、天文学、地理学、狩猟、漁業なども詩の主題となり、生物などは現代のナチュラリストが同定可能なほど精確に記述されていることも少なくない。だがそこには、自然に霊感を受けた内面が欠けている。こうした記述優位の傾向は、ノンノス(前5世紀)の『ディオニュソス譚』に見られる。ノンノスは自然の動乱を喜んで描き、ヒュダスペス川岸*5の森が雷で焼かれ川底の魚まで燃えたとか、[379-1] 蒸気の上昇によって嵐や雷雨が生じる過程を描いている。

詞華集

 [379-2] 『ギリシア詞華集』の一部には、自然に対するより深い感情と繊細な感覚が見られる。小アジアのディオニュシウス一世(c. 432 – 367)の時代にシチリアに伝わったプラタナスが多すぎるほど登場するものの、全体として言えば、植物よりも動物に心が傾けられている例が多い。ガダラのメレアグロス(c. 130 – c. 80)による春の牧歌は重要な作品である。

その後の展開

 [379-3] また古代からの名所であるテンペ峡谷*6について、[380-1] おそらくディカイアルコス(c. 370/350 – c. post 323)を真似て、アイリアノス(c. 175 – c. 235)が残した記述は見逃せない。アイリアノスの記述は、これまでで最も詳細であるだけでなく、絵画的である。「聖なる月桂樹から贖罪の枝を折る」ピューティアの行列*7を通して、木陰の谷の様子が生き生きと描かれている。

 4世紀も終わりに近づくと、散文作家のロマンスの中に風景描写が織り込まれるようになってくる。その好例がロンゴス(不詳)の『ダフニスとクロエ』だ。ただしこの作品では、愛情の描写のほうが圧倒的に優れている。

偽アリストテレス『コスモス』とアリストテレス

 [380-2] 著者の記憶を超えてこれ以上文献を列挙することは本書の意図ではない。最後に、偽アリストテレス『コスモス』(『宇宙論』)の自然描写に触れよう。曰く「〔大地と海の〕領域は、数限りない山々や草木、緑深い森林、さらには知恵ある動物、つまり人間が建設した街、さらには海にある島や大陸などによって彩られている」(392b12–20, 野澤訳)。この修辞的描写はアリストテレスの簡潔・科学的スタイルとは異なっており、本書が偽作だとされる根拠の一つである。

 [381-1] ただし、キケロの『神々の本性について』に保存されている後期アリストテレスの真作の断片には、非常に雄弁に大地を描写したものが存在する。そこでは、創造の作品の美しさと偉大さという観点から神々の力の存在が認められており、こうした言説は古代では類を見ないものである。

ローマ人の場合

全体的傾向

 [382-1]ギリシア人に欠けていた自然描写はローマ人にはますます見られない。古代ローマは農業をはじめ田園での活動に力を入れていたものの、ローマ人は冷静厳格で現実的な知性をもち、自然にかんする理念的な詩作よりも日々の活動に注力する傾向がギリシア人以上に強かった。

 また、ギリシア語とラテン語の構造の違いにも注目すべきだ。古代ラティウムの言語は柔軟性に欠け、語彙の借用も少なく、様々なアイデアを表現することよりもむしろ強い実用的傾向を持っていた。さらに、すでにアウグストゥスの時代(27–14)から見られたギリシアを真似る傾向も、民族感情の自由な表現の妨げとなった。しかし何人かの強靭な精神は、こうした障害を乗り越えることができた。

ルクレティウス

 ルクレティウス(c. 99 – 55)の『事物の本性について』は、天才的詩才に豊かに彩られ、コスモス全体を歌いあげている。ここでは詩と哲学が密接に絡み合っているが、文体の硬直化は免れている。兄フンボルトは、[383] 古代ギリシア、古代ローマ、そして古代インドで起こった形而上学的抽象と詩の融合について論じているが、詩、哲学、科学、歴史に、必然的・本質的な区別は存在しないという*8

キケロ

 多忙な政治生活のなかでも自然美へ鋭い感受性が残っている人物がいるとしたら、それは偉大で高貴な人物に違いない。キケロ(106 – 43)がそのことを証明している。『法律について』や『弁論家について』は多くの点で『パイドロス』の引き写しだが、自然描写の個性は失われていない。すなわち、[384-1] プラトンは自然を一般的な言葉でたたえているが*9、キケロは短いスケッチのなかで、自然を現実の風景の中にあるかのように描写している。キケロの故郷であるアルピーノ*10の古塔が背負う険しい山を下ると、フィブレーノ川のほとりにオークの木立が見え、そして支流によって形成された「カルネッロの島」がある。ここでキケロは瞑想、読書、執筆に没頭したという。故郷の高貴な風景は無意識のうちに魂に印象を与え、当人の生来の気質と密接に結びついたのだ。[384-2] またキケロは、建国紀元708年〔= 前48年〕のローマ内戦のさなかにあって、各地に立てた別荘での生活に慰めを見出し、[385-1]友人にあてた手紙で景色の魅力について語っている。

ウェルギリウス、オウィディウス、ティブルス、ルカン

 [385-2] ウェルギリウス、ホラティウス、ティブルスらはよく知られているので、幾つかの作品に見られる自然に対する繊細な感性について、個別例をあげるまでもないだろう。ウェルギリウス(70–19)の『アエネイス』は、叙事詩という性質上自然描写は副次的であるものの、穏やかな波や夜の静けさが柔和に描かれている。

 [385-3] オウィディウス(43 – 17)は、モエシアのトミス*11に追放されていたが、残念ながらこの湿地帯の描写は伝わっていない。[386-1] だが詩人は自然を鮮やかに歌う詩才を持っており、洞窟、泉、夜については食傷気味だが、メトニ*12の火山噴火について非常に特徴的で地球構造学的にも重要な描写を残している。以前にも引用したが、染み込んだ蒸気の力により、大地は空気の入った袋ないしヤギの皮のように膨張するとされる〔第1巻英訳p, 239)。

 [386-2] ティブルス(c55 – 19)はアウグストゥス時代の詩人には珍しく田園で隠遁生活を送っており、心情を素朴に歌うタイプだった。それだけに、自然の具体的特徴を描写した作品がないのが悔やまれる。

 [367-2] ルカヌス(39 – 65)は、祖父で修辞学者の大セネカに似て、その詩はあまりにも装飾的であった。だが、マルセイユの現在ではまっさらな海岸にあった、ドルイドの聖なる森の崩壊について、鮮やかに真に迫るすばらしい描写を残している。曰く、オークの樹は真っ二つにされ、よろめきながら互いに支え合い束の間立っていたが、葉をむしり取られ、神聖な森の暗がりに初めて差し込んだ光に苦しんでいたという。新大陸の森の中で生活したことがある人ならば、ここで詩人が僅かな言葉でもって鬱蒼とした木々をいかに生き生きと描いているかを感じ取れるだろう。

 なお、小セネカの友人である小ルキリウス(1世紀)の『エトナ』は火山の噴火に伴う諸現象を忠実に描写しているが、第1巻で我々が称賛したピエトロ・ベンボ(1470 – 1547)の『エトナ対話』のほうが遥かに個性的である〔第1巻英訳p. 242〕。

実りなき時代

 [367-3] 4世紀末期、偉大で高貴な形式の詩が消えていき、詩的精神の発露は科学や記述という裸の現実に向かった。詩的要素が単に思考のそえものでしかなかったこの実りなき時代の作品として、アウソニウス(310 – 393)の『モーゼル』がある。アクイタニア*13のガリア人として[388-1]ウァレンティアヌスのアレマン人討伐に同行したアウソニウスは、当時からブドウに覆われていたモーゼル川*14の丘陵地帯をなかなか優雅に描写している。

歴史家の場合

 [388-2] 散文作家の作品では自然風景の描写は稀だが、カエサル、リウィウス、タキトゥスら歴史家の作品では風景描写がしばしば見られる。これは戦場や渡渉、山越え、自然の障害に対する格闘などを記述しようとする際に出てくるものだ。タキトゥス(c 55 – c. 120)では、ゲルマニクスがアミシア河*15を渡るシーン(『年代記』)や、シリアとパレスチナの山脈の壮大な地理的描写(『同時代史』)が魅力的だ。クルティウス〔・ルフス〕(1世紀)の『アレクサンダー大王』は、ヘカトンピュロス*16[389-1]の木の多い砂漠地帯を美しく描写している。

プリニウス

 [389-2] プリニウス(23 – 79)の『博物誌』については後に詳細に検討したい(p. 564–568)。事実を包括的に捉えようとする一方、スタイルの点では不揃いで、個別の自然現象の記述には欠ける著作だが、秩序だったコスモス(naturæ majestas)における活動的諸力の結びつきを検討しようとする部分では、真の詩的霊感があらわれている。

別荘地

 [389-3] 華やかさや見かけ重視の建物が乱立していた点を除けば、ローマ市内や近郊に多数作られた別荘を、ローマ人の自然への愛を証明するものとして挙げることができたかもしれない。[390-1] 小プリニウス(c. 61 – c. 113)は自身の別荘についてなかなか魅力的な記述を残してもいる。ただし、剪定された木に囲まれ、建物が密集したその別荘は、今日の感覚からは趣味が良いとはいい難い。とはいえこうした記述や、ティヴォリのヴィッラ・アドリアーナ*17にテンペの谷を再現する試みなどからは、ローマ人もやはり自然を自由に享受することへの愛を失ってはいなかったことがわかるだろう。なお、せっかくの自然享受もそれが奴隷によって成り立つのであれば台無しだが、小プリニウスの領地では比較的マシだったと付け加えられるのは喜ばしいことである。小プリニウスは[391-1]奴隷に対する人道的な共感を持っており、奴隷は拘束されず、自分の労働で得たものを自由にすることができた。

見逃されたもの(スイス、柱状節理)

 [391-2] 政治家や軍人がガリアに向かう際にヘルヴェティアを通過することはよくあり、そこには文人もついていったが、アルプスや氷河その他スイスの自然風景について古代から伝わる記述はない。道の悪さについて考えるのが精一杯だったのだろう(カエサルに至ってはアルプスを越えながら文法書(『類推論』)の準備をしていた)。スイスがかなり文明化した後、シリウス・イタリクス(c. 26 – 101)は、アルプスを退屈でむき出しの荒野だとして、これと対比しイタリアの渓谷やリーリ川(ガリリャーノ川)*18の木に囲まれた岸を称賛している。

 また、フランス中央部、ライン川沿い、ロンバルディアなどでは、玄武岩の柱状節理という驚くべき光景がよく見られるのだが、ローマ人作家でこれに言及しているものはいない。

*1:南十字星の素晴らしさを示すために『神曲』から引用が行われている(煉獄篇ii, 25–28)「 私は右手を向いた。そして意識を/南の天極に向けると、原初の人々の他には/これまで目にされたことのなかった四つ星を見た。/空はその炎を楽しんでいるようだった。/哀れ、寡婦となった北半球の大地よ、/あの輝きを仰ぎ見ることができないとは。(原訳)

*2:メソニとも。ペロポネソス半島の南西部の地域

*3:ペロポネソス半島南部の地域

*4:メセニアとラコニアの中間を流れる川

*5:現ジェルム川。ヒマラヤに発し、パキスタン東部とインド北西部を流れる。

*6:テッサリアの渓谷。オリュンポス山とオッサ山に挟まれ、ピニオス川が流れてエーゲ海に注ぐ

*7:ピューティアとはアポロンの神託を伝えるデルフォイ神殿の神官のこと。神託を受ける者は、月桂樹を携え、行列をなして神殿を訪れるという慣行があった。

*8:Humboldt “Ueber die unter dem Namen Bhagavad-Gita bekannte Episode des Maha-bharata” (「バガヴァット・ギーター」の名で知られるマハーバーラタのエピソードについて), GW, i, s. 98-102.

*9:「プラタナスはこんなにも鬱蒼と枝を広げて亭々とそびえ、またこの丈高いアグノスの期の、濃い陰のすばらしさ。しかも今を盛りのその花が、なんとこよなく心地よい香りをこの土地にみたしていることだろう。こちらでは泉が、世にも優しい様子でプラタナスの下を水となって流れ、身にしみ透るその冷たさが、ひたした足に感じられるではないか。[......] それにまた、ここを吹いている風はどうだ。なんとうれしい。気持の良いそよぎではないか。それが蝉たちのうた声にこだまして、夏らしく、するどく、ひびきわたっている。だが、なかでもいちばんうまくできているのは、この草の具合だ。ゆるやかな坂にゆたかに生えて家、横になってみると、じつに気持ちよく頭をささえてくれるようになっているのだから。」(229B–230C, 藤沢訳)

*10:ローマから南東100kmほどに位置する地域

*11:現ルーマニア、コンスタンツァ。黒海に面した港町

*12:ペロポネソス半島北東部の都市。エピダウロスとトロイゼーンの間に位置

*13:アキテーヌとも。現フランス南西部の地域。主府はボルドー

*14:フランスのヴォージュ山脈に発し、北へ流れる川。ルクセンブルクを通り、ドイツに入ってライン川に合流する

*15:現エムス川。ドイツ北西部オランダ国境付近を流れる

*16:現イラン、クミス。パルティアの旧首都で、カスピ海のやや南方に位置

*17:ローマ近郊にある別荘地。世界遺産

*18:イタリア中部を流れる川。アドリア海側のモンテ・カミチアに発して南西に流れる。上流がリーリ川、下流がガリリャーノ川と呼ばれ、ティレニア海に注ぐ

予防原則およびデュアルユース「ジレンマ」というフレーミング自体が生みだすリスクの選択的受容という問題 Clarke (2013)

https://www.jstor.org/stable/j.ctt5hgz15

3つの予防原則

 予防原則(PP)には20以上の定式化がある。抽象的原理に様々なバージョンがあること自体は不思議ではないが、PPの場合に驚きなのは、各バージョンが一つの一般原則の異なる形だとは思えないことだ。それぞれのヴァージョンは、費用便益分析(CBA)との関係の観点から少なくとも3タイプのアプローチに分けられる。

 PPの登場まで、リスク管理のための支配的な概念ツールはCBAだった。しかし、CBAには不満の声もあった。第一の不満は、多くの適用事例において、「完全な科学的確実性」をもって確立されたコストしか考慮されなかったことに向けられた。この不満から展開されたタイプのPPは、潜在的コストも考慮するようCBAを誘導することを狙っている。リオ宣言原則15はこのタイプの好例である。
 
 第二の不満は、「コストの存在を証明する責任は活動を批判する側にある」という暗黙の想定に向けられた。この点への不満から展開されたタイプのPPは、挙証責任は活動を推進する側にあると明記することでCBAを補おうとする。ウィングスプレッド宣言がこのタイプの好例である。

 以上2つの不満はCBAに内在的なものではなく、予防原則もあくまでCBAを補うものだ。しかし「強い予防原則」(strong version of Precautionary Principle; sPP)と呼ばれるタイプのPPは、CBAに取って代わることを意図する。すなわちこのアプローチは、もっぱら潜在的コストにのみ基づいて政策を評価するものだ。1994年の第一回欧州"Seas at risk"会議の最終宣言がこのタイプの例である。


 これら3つのPPは明確に異なるタイプのものだが、PPの中にはあまりにも曖昧すぎて予防への熱意以外の何も伝わらないバージョンもある。以下で見るが、デュアルユースのために近年提唱されたPPにもこの問題がある。PPを抗議運動のための知的ツールだと考える Jordan and O'Rioran (1999) は、曖昧さは政治的効果を高める点でむしろ美徳だとしている。しかし、政策の舵取りのためにPPを使いたい場合、曖昧さは悪徳である。

 なお、上のようにCBAとPPを比較するのに否定的な見解もある(Sandin 1999)。その理由は、CBAとPPは適用可能な状況が異なる、というものだ。すなわちCBAはリスクに、PPは不確実性に対処するアプローチである。リスクと不確実性の違いは、可能的帰結に確率を割り当てられるかどうかの違いだ(Knight 1921)。しかし現実には、多くの事例でリスクと不確実性は混在している。つまり現実の事例を扱う場合には、同一事例にCBAとPPの両方が適用可能なのであり、したがって両者の比較は適切である。

予防、パラドックス、バイアス

 sPPは最も論争を呼び、致命的な批判を受けてきた。すなわち、ある活動を行うことにも行わないことにもそれなりの潜在的リスクがあるために、sPPは実行可能な行動すべてを排除してしまうのである(Manson 2001)。このパラドックスを避けるための一つの方法は、考慮すべきリスクの閾値を定めるというものだ(Sandin et al., 2002)。しかしこの方法には問題がある。閾値は低すぎても(批判を回避できない)高すぎても(排除したい選択肢を排除できない)いけないのだが、問題となっているのが不確実な帰結であるために、あらかじめこの閾値を適切に設定するための情報を得ることはできないのである。

 こうした問題がsPPを適用しようとする人にあまり気づかれないのには理由がある。sPPを適用する場面で人は、一つの政策候補の帰結しか考慮しておらず、〔その政策を行わないという選択肢も含め〕その他の選択肢を無視しがちなのである。この傾向を生み出す認知バイアスとして、サンスティーンはとくに利用可能性ヒューリスティクスを指摘している(Sunstein 2005)。特定のリスクが極端に利用可能になると、普通なら考えられていたであろうその他のリスクが頭から締め出されてしまう。例えば、アメリカでは9.11以降飛行機移動を避ける傾向が見られたが、これよって2011年中の交通事故死者は例年に比べ350人ほど増え、これは9.11で亡くなった飛行機の乗客乗員数(266人)を上回っている(Gigerenzer 2004)。

デュアルユースと、予防原則をめぐる議論からの教訓

 デュアルユースジレンマ状況で何を行うべきかを決定するための最も明白な方法は、CBAを使うことだ。しかし近年では、PPがデュアルユースの文脈でも有効だと示唆されるようになっており(Rappert 2008)、具体的な定式も提案されている(Kuhlau et al. 2011)。

 これまでの議論を踏まえると、PPをデュアルユースジレンマに適用しようとする場合には、ジレンマの解決においてPPがどのような役割を持つのかをできる限り明確にするべきである。上で述べた3タイプの予防原則のうち、どれが用いられるのだろうか。

 また、sPPに対する批判を踏まえると、デュアルユースの問題を「ジレンマ」としてフレーミングすること自体や、PPの適用それ自体が、リスクの選択的受容とどう繋がるかを反省すべきだ。まずジレンマというフレーミングについて。例えば新薬開発が問題になっている場合、問題をジレンマの形にすることで、開発と中止それぞれのコストとベネフィットへの注目を促すことができるかもしれない。しかし他方、複数の新薬開発が問題になっており、それらのリスクとベネフィットに重複がある場合、問題を独立した2つのジレンマとして捉えるのではなく、全体的な利益とコストを比較するほうが賢明かもしれない。この後者のような複雑な比較検討は、問題をジレンマとしてフレーミングすると見えにくくなる。というのもジレンマというフレーミングは「2つの」選択肢のあいだの選択への注目を促すからだ。

 加えて、PPも他の選択肢を無視する傾向を助長する。上述したように、sPPが適用可能になるのは代替的選択肢を無視する場合に限られる。その他2タイプのPPも、特定の活動のリスクを検討するようには促すが、その他の選択肢のリスクの検討を促すものではない。したがって、デュアルユースジレンマにPPを適用しようとすると、代替的選択肢排除傾向が互いに強化しあってしまう可能性があり、これにはとりわけ警戒が必要になる。

デュアルユース文脈のために考案された予防原則の一例

 生命科学のデュアルユース研究に適用するために、Kuhlau et al. (2011) は以下のような予防原則の定式化を提案した。

生命科学において、正統な意図で〔取得・開発等された〕生体物質、技術、知識が、人類の健康と安全を害する脅威をもたらす深刻かつ信憑性ある懸念が存在している場合、科学界はその懸念に対応するための予防的措置を策定、実施、遵守する義務がある。

 しかしこれは極めて曖昧な定式化であり、まずどのようなタイプのPPの適用を意図しているかを理解することが重要になる。

 最も率直な読みでは、この定式化は深刻なコストというリスクに対しては深刻な対処法が必要だと指摘していると言える。しかしこれはCBAでも当然言えることであり、PPの役割が不明である。
 
 第二の読みとして、この予防原則はリオ宣言と同じタイプだとも考えられる。すなわち、人類の健康や安全に対する脅威をCBAにおいて考慮すべきだと主張しているのある。しかし、リオ宣言を動機づけていたのは、科学的に不確実という誤った根拠により重要なリスクが無視されてきたという歴史的経緯である。これに対し、人類の健康や安全に対する脅威が科学界によって無視されるかもしれないと考える理由はあるのだろうか。ない場合、このPPは必要のない役割しか果たしていない。

注34:科学的知識がどう利用されるかについて科学者は責任を持てないとする伝統が科学界にはあるため、Kuhlauらはこれに対して責任の存在をリマインドしていると解釈することもできるかもしれない(Douglas (私信))。また Selgelid (2010) によると、生物科学者・生命倫理学者は遺伝学研究のデュアルユース性を無視してきた歴史がある。

 第三の読みとして、これはsPPなのかもしれない。この場合、次の2点についてどう応えられるかが重要になる。第一に、そもそもなぜsPPを採用すべきなのか。考えうるすべての重要なコストとベネフィットを考慮した結果として、ある研究のベネフィットがリスクを上回ると判断されたならば、そのリスクを受け入れるべきではないだろうか。第二に、上述したパラドックスの問題はどのように回避されるだろうか。

 PPは、使用法と文脈が特定されている場合にのみ有効である。残念ながら、Kuhlauらの提案はこうした特定性に欠けている。もしデュアルユースの文脈のためにPPの新しいバージョンを開発したい人が他にいるならば、精確な言葉によって、そのPPが何を達成することを意図しているのかを明示することが強く求められる。

デュアルユース研究と予防原則 Kuhlau, Höglund, Evers, and Eriksson (2011) 

onlinelibrary.wiley.com

  • Kuhlau, F., Höglund, A. T., Evers, K., and Eriksson, S. (2011), A Precautionary Principle for Dual Use Research in the Life Sciences, Bioethics, 25(1), pp. 1–8.

 予防原則は、非常に有害な結果が未知の確率で生じる場合に適用される意思決定原理である。この原理は環境や公衆衛生の問題という文脈ではよく取り上げられてきた。しかし、「生命科学者が自身の研究の誤用を防ぐ責任」という文脈ではほとんど論じらてこなかった。この論文は、こうした生命科学分野におけるデュアルユース研究に関しても予防原則を適用することができると、予防原則の4つの基本特徴の検討と予防原則に対する反論の検討を通じて示す。

予防原則とは

 予防原則が適用可能な問題は、人間の活動とその結果の関係の複雑性によって特徴付けられる問題や、ハザードおよびリスクに関して科学的不確実性がある問題である。生命科学研究にかんしても、善意でなされる研究とその兵器目的での悪用とのあいだには不確実性があり、因果関係を示す証拠が脆弱である。このことは、悪用が研究者のコントロールを超えていることや、悪用されうる生物学的物質は自然界にも存在していることなどによる。

 政策決定という観点から見ると、予防原則は「負担を減らす(burden-removing)原理」である(Manson 1999)。すなわち予防原則は、ある活動と危害の因果関係が科学的に確立されていない場合でも、その行為を規制することを支持する。

 しかし以下では、科学者の観点から見た予防原則をもっぱら問題にしよう。生命科学研究者は、望ましくない結果を避けるための道徳的責任をどのくらい持ちうるか。この問題に対して予防原則は、「負担を増やす(burden-adding)原理」としてはたらく(Manson 1999)。すなわち予防原則は、何らかの行動をしようとする人(この場合、科学者)に対して、その行動が害をもたらさないと示さなければならない、という負担をかける。

 「害をもたらさないとを示す」とはどういうことかを細かく見るために、「証拠の負担」(burden of proof)と「行為の負担」(burden of action)を区別しよう。この区別に基づけば、予防原則によって科学者に課される責任は、自身の研究は無害だという正当化された信念を確立する責任と、潜在的危害を回避するために積極的な対策をとる責任の、2種である。

4つの基本特徴

 予防原則の定式化には様々なバージョンがあるが、それらに共通する主要な特徴が4つある(Sandin 1999)。すなわち、「脅威」(threat)、「不確実性」(uncertainty)、「規範」(prescription)、「行動」(action)だ。この4つの要素は次のような形で結びついている。「もし不確実脅威があるならば、ある種の行為義務である」。

 実はこうした4要素は、おそらくそれと認識されないままに、生命科学者の責任にかんする既存の議論の中ですでに表明されている。例えば世界医師会によるステートメントにはこうある(WMA 2002)。「生物医療研究に携わる全ての者は、自らの発見が悪意を持って利用 [脅威] される可能性 [不確実性] が持つ含意について考慮する [行動] 道徳的・倫理的義務 [規範] を持つ」。ここで言う「考慮する」を予防的な「行動」の意味で解釈することには異論があるかもしれない。というのも、含意を考慮することはあらゆる意思決定原則の特徴であり、特に予防原則に固有のことではないからだ。そこで、「行動」をより特定しているものとして、『サイエンス』掲載の記事が挙げられる(Somerville and Atlas 2005)。ここでは、生命科学に関わる人・組織は「デュアルユース性に関する情報や知識の拡散を制限する [行動]」べきだとしており、〔いま引用した文の外では〕その他の3要素も含んでいる。

脅威の複雑性

 4要素の中で「脅威」と「不確実性」は、予防原則が適用できるのはどのような場面かを示す役割を持つ。ただしこれらの要素は、生命科学のデュアルユース研究の場合には、とくに複雑で厄介なものになる。

脅威とは何で、誰によって防衛されるべきか

 広く言えば、脅威とは、知覚された脆弱性である。9.11以降、西洋世界が脆弱だという感覚は増し、それに伴って、バイオテロリズム対策に関与する責任が科学者にますます求められるようになっている。

 しかし、生体物質、技術、情報へのアクセスを守る責任を、信憑性のある脅威を根拠として、研究者自身に要求することはできるのだろうか。確かに一般的に言えば、これまでの事例から考えて、バイオテロの脅威には信憑性があるかもしれない。しかしそうだとしても、〔個々人が行う〕通常の科学研究と脅威との因果関係には不確性がある。言い換えれば、脅威は一般に信憑性が高いだけでなく、警戒を求められる当人にとっても信憑性が高いものでなくてはならない。

 このように明確な因果関係を要求する主張に対する一つの返答として、予防原則を用いることができるかもしれない。すなわち、まさに脅威の信憑性が不確実だからこそ、予防が必要なのだ、と。

信憑性ある脅威とそうでない脅威をどうやって区別するか

 しかしながら、こうした予防原則の使いかたには批判がある。すなわち、脅威に信憑性があることは、むしろ予防原則の適用条件の中に組みこまれなければならない、という批判だ。そうしなくては、脅威なるものは最悪のシナリオによって人を脅す口実以上のものではなくなってしまうだろう。

 したがって、研究の悪用の脅威に信憑性があるのはどのような場合なのかについて、一定の基準を立てる必要がある。このことは、生命科学分野におけるデュアルユース研究では特に必要だ。というのも、生命科学者自身は安全保障環境にかんする情報を欠いており、自前でリスクアセスメントをする能力に限界があるからだ。そこで、科学者に課せられる予防の責任は、安全保障コミュニティ当局によるリスクアセスメントを踏まえたものでなければならない。

予防(Precaution)と防止(Prevention)の区別

 現在の議論では、生命科学者には生物兵器の拡散や悪用を「防止する」責任があるともっぱら言われる。しかしながら、責任にかんする理解を科学者により深めてもらうためには、「防止」と「予防」を区別することが重要だ。

 「防止」は、予想される脅威についての情報や知識があり、それを回避する具体的なアプローチが可能であることを含意する。他方で「予防」は、脅威にかんする不確実性を許容するものであり、より一般的な対策を求める。生命科学者に求められているのは、より正確に言えば、「防止」ではなく「予防」である。

不確実性

 ハザードやリスクを同定し評価すること自体にも科学的不確実性がある。したがって、安全保障リスクを評価して合理的な選択をするいかなるシステムも、この科学的不確実性に対処する戦略を備えなければならない。まさにそうした戦略を予防原則は与えるものであり、広範な科学的証拠を必要とする伝統的なリスクマネジメント戦略を補完するものだと捉えられている。

 しかし、予防原則が科学的不確実性に対処する有効な戦略だという点に反対する人もいる。以下では、3つの主要な異議を検討しよう。

予防原則に対する異議

予防原則は科学の発展を抑え込む

 予防原則は過度にリスク回避的なアプローチにつながり、重要な公衆衛生研究の発展を妨げると言われてきた。特に予防原則を強く解釈する人は、この原則に従うと我々は何もできなくなってしまうと批判する。
 
 しかし予防原則の擁護者は、予防が必要なのはあくまで、具体的なハザードの可能性についてある程度の証拠がある場合に限ると認めている。こうした「より柔軟な」解釈は、生命科学分野の研究者の責任にかんする上の〔(信憑性に関する部分)〕指摘とも整合する。すなわち、研究者が知識・情報の拡散を制限する義務があるのは、その知識が悪用されると考えるのに合理的な根拠がある場合に限られる。
 
 また、予防的行動は必ずしも法や規制の樹立を意味しない。研究者の意識を高めるための自主的な行動規範を作ることもできる。さらに、予防原則は研究のスピードを緩めるかもしれないが、それは新しい展開や技術を必ずしも妨げない(Grandjean, 2004) 。加えて、仮に研究が妨げられるにしても、それは道徳的に正当化される、と論じることもできる。予防原則の強みは、科学の社会における役割は何か、科学の発展がどこへ向かうべきか、その発展は十分な情報に基づく選択によって正当化できるか、といった点に反省をもたらすところにある。

予防原則は実践的な応用可能性を欠く

 予防原則は予防のために何をすべきかなのかを具体的に指定しておらず、実際的に機能しないという批判もある。

 しかし、そもそも多くの道徳原理は具体的に何をすべきかを指定するものではない。

 さらに、具体性を欠くというのは、柔軟性という利点だとも考えられる。あまりに狭く解釈されている原理は固定的な命令に転化し、それさえ守っていれば良いと反省を放棄する態度を醸成する危険性がある。予防原則は、解釈、洗練、経験に基づいてより精密で実践的なものになっていくポテンシャルを持っていると言える。

予防原則は十分定義されておらず曖昧である

 予防原則は十分定義されて(well-defined)いないという批判がある。この指摘はその通りだ。しかしこのことは、デュアルユースという文脈における予防原則も曖昧であることを必ずしも意味しない。予防原則の曖昧さは、この原理を政策決定の基盤や法的原理として用いる場合にはやはり問題になりうるだろう。しかし本論のように、責任ある研究実践を導く道徳的手引きとして予防原則を考える場合、曖昧さはそれほど問題にならない。

 予防原則の曖昧さは、問題となる脅威の不確実性や未定義にも由来する。デュアルユースの場合も、脅威の信憑性や悪用が起こる確率を決定するのは難しい。ここで、こうしたリスクの評価は研究者には不可能なのだから、研究の想定されない応用に対して責任を持ちようがない、と論じる人がいるかもしれない。しかしこれに対して予防原則の観点からは、無知を減らす努力をしないことが非難に値すると言うことができる(「責められるべき無知」(culpable ignorance))。すなわち研究者には、安全保障に関する懸念を意識し、関連する知識を集める責任がある。

結論

 以上の議論を踏まえて、生命科学のデュアルユース研究について次のような予防原則の定式化を提案する。

 生命科学において、正統な意図で〔取得・開発等された〕生体物質、技術、知識が、人類の健康と安全を害する脅威をもたらす深刻かつ信憑性ある懸念が存在している場合、科学界はその懸念に対応するための予防的措置を策定、実施、遵守する義務がある。(p. 8)

 生命科学分野で予防原則が成功するかは、先に挙げた4つの基本特徴にかかっている。予防原則の適用条件となる「脅威」と「不確実性」については、脅威の信憑性や有害な帰結を予見可能にするための情報の入手可能性が重要になる。また「規範」と「行為」については、柔軟性と具体性のバランスを達成する必要がある。

 加えて、予防原則の成功は次のような構造的要因にも依存している。すなわち、懸念事項を報告するシステム、「内部告発者」の保護、ピアレビュー、安全保障その他の関連領域当局からの情報の入手しやすさ、などだ。また、責任の所在が研究者個人にあるのか科学コミュニティにあるかも重要な問題であり、これは状況によって異なるだろう。

 最後に、予防は必要に応じて様々な程度を許すことを確認したい。警戒度が低いほとんどの場合、予防原則は研究者の意識を向上させる働きをするにすぎない。警戒度が高い場合には、危険な生体物質や技術に携わる少数の科学者に、より慎重な行動が求められる。

 深刻な脅威やリスクに関する不確実性が存在し、他のアプローチでは懸念が現実化しないことを願うことしかできないときに、予防原則はそれに対処する、少なくとも対処しようとすることができる。








 

カール・フォークトの生涯と著作 Gregory (1977)

【目次】

誕生〜学生時代(1817–1839)

ギーセン

 カール・フォークトは1817年ギーセン生まれ。1833年にギーセン大学に進学して医学を志し、同大の医学部に属す父が私的に開いた解剖学講義の中でゲオルク・ビューヒナーと知り合う。1834年、リービッヒの実験化学講義に参加し、化学の才能を現す。

 同34年、リベラル派だった父がフランクフルト議会占拠未遂事件(33年)への関与からギーセン大を解職、ベルン大医学部に請われたため家族はスイスへ移住する。フォークトは一人ギーセンに残り勉学を続けた。だが、積極的に参加はしていなかったものの急進的な学生団体に加入しており、活動的な学生を警察から匿ったとして35年に大学から追放、各地を転々として逃亡したのち、ベルンで家族に合流した。

ベルン

 1834年に新設されたベルン大学は、国からの賛同を得られず州が独自に設立した大学で、多くの外国人教師が招かれ自由な雰囲気が支配していた。ただし実験器具や指導者の不足から、フォークトは化学を続けることはできなかった。その代わり、ブレスラウから来た生理学教授ヴァレンティン(G. Valentin)のもとで解剖学・生理学・動物学を学ぶことにし、39年には医学の博士号を無事取得する。

 博士号取得の少し前、逃亡学生の避難所となっていたフォークト家に、ギーセンからエドゥアルト・デゾール(Eduard Desor)が来ていた。デゾールは以前はパリで翻訳の仕事をしており、地質学や古生物学に関心を持っていた。その折、ルイ・アガシがヌーシャテル大への帰路の途中でベルンに立ち寄り、語学の堪能な助手が必要だとフォークト父に相談する。父はデゾールを推薦すると同時に、博士号を取ったらフォークトも一緒に働けるように取り計らっていた。

ヌーシャテル:アガシとの研究(1839–1844)

研究成果をめぐる軋轢

 こうして1839年からの5年間、フォークトはヌーシャテル大のアガシのもとで研究を行なった。2人の間には、研究成果の出版の仕方をめぐって軋轢があったようだ。リービッヒのもとでフォークトが学んだやりかたは、学生が書いたものは学生の単著として印刷するというものだった。他方でアガシは、学生の研究成果を自分のもののように扱うことをいとわなかった。具体的には、アガシの『魚類化石の研究』(1833-44)において、フォークトの仕事がアガシの名前で出版されており、これがフォークトには不満だった。同様の不満はデゾールにもあり、こちらはのちに訴訟に発展した。

氷河

 ともあれ、摩擦が限界に達するまでには時間があった。フォークトは1840年にはアガシの代弁者として氷河説を擁護する講演を行い、その後フォン・ブーフとの論争を戦った。アガシは自ら氷河説を擁護することでフンボルトら高名な科学者と正面衝突することを避けたかったのだ。またフォークトは、1842年に『山の中、氷河の上』(Im Gebirg und auf den Gletschern)を初めての単著として出版した。これはヌーシャテル大のグループがスイスの氷河を探検した時の記録である。

 こうした探検には大きな費用がかかるためにアガシは常に困窮しており、金銭面での魅力もあって、1846年にアメリカはハーバードに渡ることになった。渡米にあたってアガシはフォークトを同行させなかったが、これは上述の出版の問題に加え、アガシの信仰心が増してきたことで、二人の関係が悪化していたからだとフォークトは述べている。

パリ時代(1844–47)〜ギーセン大着任(1847)

 アガシがすでに渡米を決めていたので、フォークトは1844年にはヌーシャテルを離れてパリに向かった。パリ到着ほどなく、コレラにかかったとされるバクーニンを助けるという一幕があり(実際は消化不良だった)、親交を結ぶ。パリでは科学記者として働き、アカデミーへの出席、講義の聴講(特に、高等鉱業学校でのエリー・ド・ボーモンの講義)、友人たちとの調査旅行などを行なった。この時期に得たAllgemeine Zeitung紙との知遇は『生理学書簡』(Physiologische Briefe, 1847)に、聴講経験は『地質学・岩石学教科書』(Lehrbuch der Geologie und Petrefactenkunde, 1846)に、研究旅行は『大洋と地中海』(Ocean und Mittelmeer, 1848)にそれぞれ結実する。

 パリ時代のフォークトを研究したヘルマン・ミステリは、パリ到着時のフォークトは政治的革新派でも科学的唯物論者でもなく、パリでの経験によって徐々に急進化していったと主張した(Misteli 1938)。以下ではこの時代のフォークトの著作を検討し、最後にミステリの主張を評価しよう。

『地質学・岩石学教科書』(1846)

 本書は基本的にはド・ボーモンの見解を踏襲したものだが、氷河の問題についてはヌーシャテル大の見解を取っている。当時のパリの地質学サークルの大きな関心は激変説の当否にあり、フォークトもこの論争をAllgemeine Zeitung紙への寄稿で伝えるとともに、自身では激変説を擁護していた。フォークトの激変説にはアガシの影響が色濃い〔つまり、急激な気温低下に訴えるものだ〕が、アガシが激変説に与えていた宗教的意味合いはフォークトにはまったく伝わらなかった。『教科書』に曰く、「有機体の漸次的な完全化、すなわち不完全なタイプが次々と破滅してより完全なタイプが現れてくるというのは、人格的な創造主の存在にむしろ反対する最大の証拠のように思われる」。ただし、信仰者に対する態度は後に比べればはるかに寛容で、創造主の仮定を認めたい人は認めれば良いとも述べている。

『生理学書簡』(1845–47)

 本書は45年・46年・47年に書かれた3セットの書簡群から構成される。ヘルマン・ミステリの解釈では、この3年の過程の中でフォークトは徐々に唯物論へ傾倒していったが、47年時点でもまだ唯物論的世界観を完全には受容していない(Misteli 1938)。この解釈は、以下のような論理によっている。唯物論的世界観の完全な受容は、決定論的枠組みの採用を意味するはずだ。しかし決定論的枠組みは、政治的な急進主義を正当化する根拠を掘り崩してしまう(これこそ、マルクスが弁証法的唯物論によって乗り越えようとしたジレンマだった)。フォークトはたしかに一方で、フランスの唯物論の影響を受け唯物論に傾倒していった(『生理学書簡』)。しかし同時に、パリや研究旅行先でバクーニン、ヘルゼン、ヘルヴェークらの影響を受け、政治的左派にも関与していった〔。そしてこの後者の側面が残っている限り、唯物論的世界観の完全な受容には至っていない、というのがミステリの議論である〕。この相反する2側面は、しかし既成の規範に激しく反対するという点で共通している。この革命のレトリックによって、フォークトはあたかも一つの統一的立場を取っているように自らを欺くことができた。

 では書簡の内容に立ち入って、唯物論がどのように現れているかを見てみよう。45年の書簡群では、唯物論的な部分は2箇所しかない。第一の箇所では、有機体は無機物の中にある力を特殊な形で使用するにすぎず、別種の特殊な力を展開するわけではないとしている。第二の箇所ではよりはっきりと、生気を信じている人を非難している。46年の書簡群はより大胆になっており、カバニスの主張を修正した有名な喩えが出てくるのもここだ。曰く、「わずかでも一貫した思考をする自然科学者なら、精神活動という言葉で理解されるすべての能力は、脳という物質の機能に過ぎないという見解に達すると思う。あるいは少し乱暴に言えば、思考と脳の関係は、胆汁と肝臓の関係、尿と腎臓の関係に等しい」。この乱暴な発言は、唯物論の批判者はもちろん、ビューヒナーからも批判された。最後の47年に書簡群では唯物論的主張はさらに多くなっている。

 これらの書簡はあくまで生理学の普及のために書かれたもので、哲学な分析を行うものではなかった。フォークトはむしろ哲学を毛嫌いしていた。フォークトはあくまで自然科学の世界の住人であり、その聴衆は民衆だった。実際、フォークトはこの本(の悪評)によって民衆に知られるようになっていった。

『大洋と地中海』(1848)とギーセン大学就任演説(1847)

 パリ時代、フォークトは2回の研究旅行を行っている。一回目は1845年の8〜9月、バクーニンおよびヘルヴェークと共にブルターニュとノルマンディーの海岸を訪れ、海辺の下等動物の研究を行った。二回目は1846年12月〜47年3月、ヘルヴェークと共に今度は地中海を目的としてニースまで行った。道中ジェノヴァでは民主主義の指導者ジェームズ・ファジ(James Fazy)とも出会っている。帰路、リービッヒからの手紙によりギーセン大に新設された動物学のポストに招かれたため、同年4月には12年ぶりに故郷に戻ることになる。

 2回の研究旅行から生まれた著作が『大洋と地中海』(1848)だ。この著作は特に唯物論的なものではなく、その強調点はむしろ「新しい科学」にあった。生理学はいま転換点にあるとフォークトは考えており、化学と物理学を生理学に合流させることが必要だと説く。そして、そうした改革への情熱を科学界の老害たちが邪魔していると怒りの声を上げる。フォークトは、自身がプロの研究の世界、とくにフランスの科学界の中にうまく入りこめないことに憤っていた。曰く、自然の中では老いたものは当然動けなくなるが、人間について同じことを指摘するとなぜか反対の声が上がるのである。

 こうした、人間にかんする推論のために自然を利用するという手法は、政治的目的のためにはさらに大々的に使われた。フォークトがこうした手法を徐々に発展させていったことは、45年に書かれた『大洋と地中海』一巻と、47年に書かれた二巻を比べればはっきりわかる。第一巻では、共産主義は自然の秩序に基づくとするバクーニンの説がアイロニカルに紹介されていたが、二巻では、自然を支配階級になぞらえ、自らを「科学の自由なプロレタリアン」と称するに至っている。

 1847年春、ギーセン大に着任したフォークトは就任演説を行ったが、そこではよりはっきりと、革命的イデオロギーを正当化するために自然が持ち出されている。すなわちその結論部では、ビュフォン、キュビエ、フォン・ブーフ、ド・ボーモンといった激変説の支持者を引き合いに出しながら、一つの段階から次の段階への移行は革命によって生じるとする。曰く「革命の原理は、無機的自然においても有機的自然においても、あらゆる発展に共通である」。

 同年秋、フォークトは『大洋と地中海』の序文を書いた。その中でフォークトは、自らが唯物論者であると明言し、唯物論は残念ながら生理学の不可避の結果だと述べている。このように、フォークトはパリ時代の終わり、つまり1848年以前の段階で唯物論を確立している。後の科学的唯物論の批判者は、科学的唯物論の運動は1848年以降の反動の時代の産物と評したが、フォークトに関してはこの見方は一面的である。フォークトは唯物論に傾くのと同時に革命的な政治変革にも向かい、かつ、そうした革命は科学によっても支持されうると考えるようになっていった。

 上述したように、ヘルマン・ミステリの解釈では、唯物論と政治的急進主義は互いに矛盾する。したがって、このあとフォークトが最終的に大学に落ち着く1852年までは、フォークトは唯物論を完全には受容していないとミステリは主張している。しかしこうした主張は、唯物論に、そしてフォークトに多くのものを求めすぎている。唯物論は論理的にもっとルーズなものだったし、フォークトは哲学者ではなかった。やはり『生理学書簡』最終巻の時点で、フォークトはすでに唯物論者だったと考えるべきだ。

48年革命とニース滞在(1850–51)

革命と挫折

 政治的に急進的なフォークトはギーセン大当局には不評だったが、学生の人気は高かった。48年革命時には、ギーセンの代表としてフランクフルト国民議会の選挙に出馬し当選、活発に活動した。しかし議会の頓挫を受けてシュトゥットガルトに逃亡、今度は当地のランプ議会のリーダーの一人となったが、これも結局は崩壊した。

ニースへ

 こうして再びドイツを追われ職を失ったフォークトは、一旦ベルンの実家に戻って左派の活動に関与したのち、50年秋には研究のために2度目のニース滞在を行う。この時期に書かれた『動物国家の研究』(Untersuchungen uber die Thierstaaten, 1851)はアナーキズム擁護の著作で、特にドイツの大学システムに厳しい。革命鎮圧後に書かれた本書では、唯物論的な決定論が公然と主張されている。また、ベルンに戻ったときから取り組んでいた、チェンバーズの『創造の自然史の痕跡』(Vestiges of the Natural History of Creation, 1844) の独訳を出版した (1851)。本の内容というよりは、本書が英国で大きな反感と騒動をもたらした点に共感したようだ。さらに科学研究にも戻り、イカの交尾の仕組みを解明している。

 加えて、Gegenwart紙へ生理学に関する長編の記事を寄稿した。この記事では生理学が、物理科学の助けを借りながら、迷信的視点からいかに解放されてきたかが語られている。また、生理学の応用としての栄養学にも注目しており、その議論は、影響関係は不明だが、モレスコットのそれと酷似している。ジャガイモを単体で食べると気力が衰えるので豆を食べろというアドバイスも共通だ。

『動物学書簡』(1851)

 さらに同時期には、唯物論的な一般向け生物学本を2冊公刊している。一冊目は、2巻1359ページからなる大著『動物学書簡』(Zoologische Briefe, 1851)。フォークトは本書で、比較解剖学、比較生理学、自然史、古生物学、動物地理学などの新知識を相互に関連づけることを狙っており、内容の9割以上が様々な動物の純粋な記述にあてられている。ただし、ドイツの大学への批判や、革命が科学に与える影響に触れることも忘れてはいない。すなわちフランス革命がキュヴィエを助けたように、48年革命は新しい動物学を加速させるだろう。

『図解動物誌』(1852)

 翌1852年の『図解動物誌』(Bilder aus dem Thierleben, 1852)は、ニースでの自身の研究・経験に基づいたよりインフォーマルな著作だ。本書は科学の大衆化だけでなく、科学界から教会や国家といった権威への服従を取り除くことをも目的としている。マグロの習性や海洋生物の生殖、海の絶滅動物などの紹介の中に、無からの創造への批判が組み込まれているという具合だ。フォークトは、創造主を信じている科学者の代表例としてゲッティンゲン大学のルドルフ・ヴァーグナー(Rudolph Wagner)の名をことさらに挙げている。実際本書の一部の節は、ワーグナーが以前にAllgemeine Zeitung紙に書いていた記事への応答になっており、これは2人の論争の第一ラウンドを締めくくりつつ今後の展開を暗示するものになっている。

ジュネーヴ大着任と唯物論論争(1852–1858)

 1852年、ジュネーブ大から植物学の教授ポストを打診され、専門外だとして断ったが、大学側の粘りもあって、結局同大の地質学・古生物学の教授に着任した。フォークトはこの先ジュネーヴで一生を過ごすことになる。

 『図解』出版後、ヴァーグナーがAllgemeine Zeitung紙に書く反唯物論的な記事は、その矛先をフォークトに集中させてきた。ヴァーグナーはフォークトの誤りをその政治的見解に求め、フォークト自身の『生理学書簡』やロッツェの『医学的生理学』を参照しながらフォークトの唯物論的意識理解を攻撃し、さらにはこれ以上反論する価値がないと宣言した。フォークトの側もAllgemeine Zeitung紙に反論を送ったが、一部しか紙面に掲載されなかったこともあり、事態は一旦沈静化した。

ヴァーグナーの講演

 しかし1854年秋、ゲッティンゲンで開催されたドイツ科学者・医学者協会の大会で、ヴァーグナーは「人類の起源と霊的実体」と題する公演を行う。ここでヴァーグナーは、全人類が単一の祖先に由来することや、人間の霊魂が不死であることを主張し、一方でこれらの主張は自然科学では証明も反証もできないとしつつも、他方でこれらの主張は自然科学とは整合的だとした。フォークトによると、ヴァーグナーは仮病を使って、フォークトがいない時間と場所を狙って講演を行なったらしい(ヴァーグナー側は否定している)。

 大会直前、フォークトはAllgemeine Zeitung紙への通信の中でヴァーグナーの『神経学研究』(Neurologische Untersuchungen, 1854)の一節を引用し、その箇所は自滅的だと指摘していた。すなわちそこでヴァーグナーは、霊魂が必要なのは道徳的世界秩序の中の話であり、生理学では霊魂を仮定する必要はないと述べていたのだ。こうした「二重帳簿」的なアプローチには、フォークトのようなリベラル派だけでなく保守派からも批判があった。これに対して自説を擁護するためにヴァーグナーはパンフレット『知と信』(Ueber Wissen und Glauben, 1854)をすぐさま公刊した。

『盲信と学問』(1855)

 こうしたヴァーグナーの一連の動きに堪忍袋の尾が切れたフォークトは、1855年1月に『盲信と学問』(Köhlerglaube und Wissenschaft)を出版、第一部の大半でヴァーグナーに対する悪意ある個人攻撃を公然と展開した。人類の単一起源と霊魂不滅にも当然反対したが、自然的手段で知りえないものをことごとく否定したために、意識に関する認識論的難問を完全に無視することになってしまった。

論争の重要性

 フォークトとヴァーグナーとの論争はいくつかの点で非常に重要だった。第一に、フォークトはヴァーグナーという権威ある相手を引き出したことで、大きな注目を集めることができた。第二に、『盲信と学問』はその他の科学的唯物論者の著作と出版時期が重なっており、科学的唯物論勢力による正面攻撃の一環として機能した。第三に、心と身体の関係という古い問題が、もはや無視も独断的回答も許されないかたちで噴出した。

60年代の活動(1859–1869)

マルクスとの論争

 1859年、Allgemeine Zeitung紙は、フォークトがフランスから資金を得て反オーストリア活動を支援しているというロンドンからの情報を報じた。フォークトはこの情報は亡命中のマルクスの党によるものだと指摘、この疑惑をめぐってマルクスと論争になった(本書の第9章200頁以下参照)。

ダーウィンと『人間についての講義』(1863)

 1860年代初頭はフォークトにとって充実した時期だった。61年にはノルウェーを経由して北極圏を訪れることができた。科学方面では、ダーウィンの影響もあって古生物学や人類学に注力し、多くの論文のほか、ヌーシャテルでの公開講義を元にした最後の一般向け著作『人間についての講義』(Vorlesungen über den Menschen, 1863)を著した。この講義でフォークトは、ダーウィンの影響により、種の固定性と激変の重要性に関する見解を完全に変えた。この点で本書は、最初期の親ダーウィン的ドイツ語テキストの一つであり、さらに、ダーウィンのアイデアを人間に応用している点でもごく初期の試みである。

反軍国主義

 政治方面ではプロイセンの軍国主義に徹底的に反対し、大ドイツ主義者からの反感を買った。曰く、「前代未聞の野蛮の時代である」。フォークトはとにかく戦争嫌いで、70年にビスマルクがフランスに勝利した時にもその姿勢を崩さず、アルザスの併合にも反対、フランスは侵略国ではなかったと公言し、ドイツ軍を嘲笑する詩を書くなどして、ドイツ人の激しい怒りを買うことになった。

フィルヒョウ、マイヤーとの衝突

 60年代にも他の科学者との論争はなくならず、ドイツの著名な科学者であったフィルヒョウやマイヤーと小競り合いをすることになる。フィルヒョウとのあいだで問題となったのは、小頭症の扱いだった。フォークトは、胚の発達が途中で妨げられることで、猿と人間の移行的状態に留まったものが小頭症だというアイデアを『人間についての講義』で述べていた。これに対しフィルヒョウは、小頭症はそうした先祖返り的状態ではなくて、むしろ病理的なものだと反論した。この反論およびチュービンゲンの解剖学者ルシュカ(Hubert Luschka)の研究を受けて、フォークトは1872年には自説を撤回した。

 マイヤーとの衝突はやはり科学と宗教を巡るものだった。1869年秋にインスブルックで開催されたドイツ科学者・医学者協会の大会で、マイヤーは脳と心を同一視する見解に反対し、精神は物理学者や解剖学者の研究対象ではないとした。そして、主観的世界と客観的世界の間には神が打ち立てた永遠の調和があるという言葉で講演を締めくくった。大会に参加していたフォークトは後日その様子を新聞記事にまとめ、マイヤーの講演には明晰さと論理性が欠けるなどと厳しく批判した。

晩年(1870–1895)

リベラル・人道主義者として

 1870年ごろから、フォークトは元来のドイツ的なリベラル、人道主義者としての側面をあからさまにしていった。スイスではすでに50年代から政治家として活動を始め、60年代初頭に一時中断していたものの、70年代には再びジュネーヴ州の大会議や全州議会(上院)に参加、70年代後半から80年代にかけては国民議会(下院)にも参加した。無政府主義者として政治的に独自の立場にあったが、ドイツ自由党にもっとも馴染んでいた。

 前述した反軍国主義に加え、晩年にはトライチュケおよび反ユダヤ主義に対しても声高に反対した。人道主義者としては、科学界の視点から社会を批判した。国家的紛争に対する科学の中立性を擁護し、1871年にボローニャで行われた国際会議では各国の調整役を果たした。英国での反生体解剖法の復活に反対し、ロマン主義に傾くドイツの大学生に対して科学教育の重要性を訴えた。また個人的なレベルでは、信仰を持つよう促す手紙も丁重に断っていた。

80年代の活動

 1880年代にもフォークトは旅をし、論文を発表し、翻訳をし、他の人と協力して科学書を書き続けた。82年にはレジオン・ドヌール勲章のシュヴァリエに叙せられた。87年に70歳になってからは小説でドイツ社会を批判するようになり、3つの作品を残した。

 最晩年には再び科学研究に戻った。「私は魚ではじめ、魚で終わるでしょう」。

 1895年5月5日、カール・フォークトはジュネーヴに77歳で没した。多くの科学者と文通した生涯だったが、その中には意外にも家族についての言及がほとんどない。エンゲルスがマルクスに宛てた手紙によれば、労働者の友・貴族の敵だったフォークトも、農民の女中だった妻との階級差を克服できなかった、とされている。玄関先まで困難に取り巻かれた人生であった。

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人種について(フンボルト『コスモス』から) Humboldt (1846)[1849]

https://archive.org/details/cosmossketchofph01humbuoft/page/n5/mode/2up

  • Alexander von Humboldt (1849) Cosmos: A Sketch of a Physical Description of the Universe, vol. 1. Translated by E. C. Otté. London: Henry G. Bohn.

※小見出しおよび注はすべて要約者による

導入:人間の自然への依存

 [360-3] 自然の全体像は、人種の際立った特徴に触れないままでは不完全だ。すなわち、人種の身体的差異、その地理的分布、自然の力が人間に与える影響、その逆の影響、などを考察しなければならない。

 人間には精神活動、知的文化、高度な気候適応能力があるので、自然の諸力の支配から逃れやすい。しかしそれでも、人間は自らを取り囲む土壌や気象に依存し、地上生活と結び付けられている。このように人間は自然に依存しているために、[361-1] 自然的宇宙誌の範疇の中に人間の単一起源の問題が入ってくる。

 [361-2] また、言語の様々な構造には民族の運命が神秘的にも反映しており、従ってそれは諸人種の類縁関係とも密接に関連する。人種のわずかな違いが知的文化にも影響することは、ヘレニズム諸民族の歴史を見れば明らかである。

人種の単一性

極端な差異への注目

 [361-3] 人間の肌の色や形態の差異の極端な部分にのみ目を向ければ、諸人種(Racen/races)は単なる変種(Abarten/varieties)ではなく、そもそも異なる種(Menschenstämme/spiecies)なのだと考えたくなる。また、気候などが過酷な条件に置かれても人には変化しない特徴があり、それは元々そういう種だからだ、とも考えられる。

原注:タキトゥスは、ブリテン島の住人たちの特徴について、当地の気候に起因するものと遺伝に由来する不変なものを区別した(『アグリコラ』、11)*1。また、温暖地帯、寒冷地帯、新大陸の山岳地帯のそれぞれにおいて、人々の体型が変化しない点については、フンボルト自身のRelation Historique (1825) を参照 。

近年の研究:諸形態のグラデーション

 しかしながら、人種の単一説を支持するより強力な理由があると考えられる。例えば肌の色や頭蓋骨の形態について、数多くの中間的なグラデーションがあることが、[362-1] 近年の地理学的知識の急拡大や、雑種の生殖能力に関するより正確な観察からわかってきている(脳についてはFriedrich Tiedemann、骨盤についてはWillem Vrolikと〔Rudolf〕Wagnerの研究を参照)。

 例えば、肌の暗いアフリカの民族〔を特徴づけると思われていた〕黒い肌・ドレッドヘア・固有の相貌といった諸特徴は、南インド諸島や西オーストラリア諸島の民族やパプア族・アルフォルス族との比較によって、必ずしも互いに結びついた諸特徴ではないことがわかった。熱帯の暑さと黒い肌が切り離せないと思われていたのは、西洋が地球のごくわずかな部分しか知らなかったからなのだ。

 古代ギリシアの悲劇詩人ファセリスのテオデクテスは、エチオピア人は太陽神によって肌を黒くされ髪も乾燥していると述べていた。気候が人種に本当に影響するのかが初めて議論されるようになったのは、アレクサンダー大王の遠征によって自然地理学に関する様々なアイデアが生まれてからであった。

ミュラーの『人間生理学ハンドブック』から

 [363-1] 今日もっとも偉大な解剖学者であるミュラーは次のように述べている。

 動物や植物の集団(Geschlechter/families)は、その種(Art/race)や類(Gattung/spiecies)の固有の制約の中ではあるが、分布に応じて様々な変化を遂げ、種(Art/species)のなかの変種(Variation/variations)として、有機体の世代を超えて伝播していく[*]*2。現在の動物種(Racen/races)は、 [364-1] 内的および外的条件両方の影響によって生じたものであり、最も広く分布するものが最も多様な形態を持っている。諸人種(Menschenracen/races)もまた、単一の種(Art/species)の諸形態(Formen/forms)であって、一つの属(Genus/genus)における異なる種なのではない。なぜなら、異なる人種の交配による子孫は繁殖可能だからだ(第2巻 p. 768, 772–774)。

[*] 訳者注:実際、イギリスにおける現在の植物相は、気候変化に伴って徐々に形成されたものである。

兄フンボルト『人間の言語構造の相違について』から

 [364-2] また、諸人種のいわゆる「揺籃の地」に関する地理学的探求は、未だ純粋に神話的な性格を脱していない。兄フンボルトは次のように述べている。

 諸民族集団(Völkerhaufen/social groups)が元々あったのか後から形成されたのかを示す歴史的証拠はない。確かに、地球上の異なる場所における神話には関係が見られる。このことは、全人類はもともと一つだったと示唆するように思える。[365-1] しかし逆に、そうした神話は伝承や歴史に基づくのではなく、単に人間の表象様式の同一性に由来すると考えることもできる。また〔仮定される共通の〕神話は、人類の出現という出来事を、現在の人間の経験に沿うように説明しており、この点でもやはりこれは純粋な〔事実ではない〕神話にすぎないと思われる。すなわち人類の誕生は、無人島や人里離れた谷への植民のように語られているのだ。人は自らの種族(Geschlecht/race)および時代(Zeit)にあまりにも深く結びついているので、先行する世代や時代をもたない個人なるものを思考する(fassen/conceive)ことができない。したがって、人類の出現という問題について考えることは無駄である。

民族に依拠した人種分類

 [365-2] したがって、今日「人種」(Racen/race)という曖昧な言葉で呼ばれているものは変種(Abarten/varieties)であり、人類の分布は変種の分布にすぎない。

 動植物界に関しては、細かい集団への分類の方がその基盤がしっかりしている。そこで人類についても、小さな民族集団(Völkerfamilien/families of nations)の確立を根拠とした人種の決定が行われるべきだと考える。ブルーメンバッハの5分類*3やプリチャードの7分類*4は、各人種の定義がはっきりしておらず、確立された原理に基づいたものではない。確かに極端な形態や色は区別されているが、どこにも当てはまらない人種も存在している。また、地名や国名を分類名として使うと大きな曖昧さが生じてしまう。例えば、トゥーラーン(マー・ワラー・アンナフル)は、プリチャードの言うトゥーラーン族の語源となった地域だが、時代によってインド・ゲルマン族やフィン族が住んでいた。

原注:〔トゥーラーン地域について。〕ニーブールは、ヘロドトスやヒポクラテスの言う「スキタイ人」はモンゴル人だという仮説を立てた。しかし当時からスキタイにモンゴル人がいたのだとすると、トルコやモンゴルの部族たちがオクサス川〔=アムダリヤ川。トゥーラーンの南限〕やキルギス草原に到着したのは遅かったという事実との整合性がとりにくい。むしろ「スキタイ人」はインド=ヨーロッパ系のマッサゲタイを指している可能性が高い。当時モンゴル人(タタール人)はもっとアジアの東の方にいた。〔後略:同地域にフィン族が住んでいたことの説明〕

言語

 [366-2] 諸言語は、人間の精神的創造物であり、その精神の発展と密接に結びついている。諸言語は特定の民族的形態をとるので、[367-1] 民族の類似性や相違性を認識するために非常に重要である*5。この半世紀のドイツにおける哲学的言語学の進展によって、言語の民族的性格*6の研究は大きく促進された。しかし、すべての理念的思弁の領域同様、ここでもまた、豊かな収穫と欺瞞の危険は隣り合わせである。

 [367-2] 実証的な民族学研究が教えるように、諸民族やその言語の比較には細心の注意が必要である。[367-3] というのは、隷属、長期の交流、異国の宗教の影響、混血などが、ごく少数の影響力と教養のある移民のあいだで生じただけでも、両大陸において一様な新現象を生み出してしまうからだ(ある民族の中にまったく異なる種類の諸言語が導入されたり、異なる起源を持つ諸民族のなかに共通のルーツを持つ諸語彙が導入されたりする)。この種の現象は、アジアの征服者達によって頻繁に生じてきた。

 [367-3] それでも、言語はやはり精神の発展の歴史の一部分である。精神は自然的条件の影響から自らを解放しようとするが、完全に逃れることはできない。したがって、心の自然な能力には、なにがしか人種や気候の痕跡が残るものだ。そこで我々は、人種と言語の関係にかんする考察(現時点ではほのめかすだけだが)から生じるだろう明るい色彩を、この自然の全体像から奪うことはしなかった。自然世界と知性および感情の領域を密接につなぐ絆を無視したくはなかったからである。

人種に本性的な優劣はない

 [368-2] さて、我々は人間の種類の統一性を主張してきたが、同時に、本性的に高等/下等な人種があるという不愉快な想定に反対する。

原注:自由に対する人間の権利は平等ではなく奴隷制は自然な制度だという非常に軽薄かつ今日でもあまりに頻繁に聴かれる見解を最も体系的に展開したのは、大変残念ながら、アリストテレス『政治学』である(第一巻三、五、六章)。

 確かに、精神的な文化を通じてより高貴になった(veredelte)民族はある。しかし、高貴な民族(edleren Volksstämme)なるものは存在しない。すべての民族は等しく自由へと運命付けられて(bestimmt)いるのだ。〔この点について、兄フンボルトは次のように述べている〕。

 全歴史を通じて、その妥当性がますます明白になってきている観念が、人間性(Menschenlichkeit)だ。これはすなわち、あらゆる偏見や視野狭窄が人々のあいだに築いてしまった障壁を取り除き、宗教、国家、肌の色に関係なく、全人類を一つの共同体として、精神的な力を自由に発展させるという一つの目的をもった全体として扱おうとする努力である。これは社会の究極的・最高の目的であると共に、人間の心に自然が植え付けた方向性、すなわち自らの存在を無限に拡張しようとする方向性とも合致する。[369-1] 人間性という絆の承認は、人間の内なる本性に深く根ざし、人間の最高の努力によって自らに課せられることで、人類の歴史のもっとも高貴な指導原理の一つとなる。(カヴィ語研究第3巻426頁)

原注:同書からさらに引用:アレクサンダー大王、ローマ、メキシコ人、インカ人などによる征服は、諸民族の国際的合併をより拡大させた。こうした偉大で強力な人物や国家は〔人間性という〕一つの観念の影響下で行動していたのだが、その観念の純粋な形は理解されていなかった。〔その純粋な形、すなわち〕高貴な慈悲という真理を初めて広めたのはキリスト教だった。今日では文明化という考えはますます活気付いており、民族の交流や知的涵養を広げていこうという機運が高まっている。全人種を結びつけるのは、何よりも言語である。一見、諸言語はそれぞれに特異な性質によって諸民族を分離するかと思われるかもしれない。しかし、異言語を互いに理解し合うことこそ、個々の民族の特色を傷つけることなく、人々を結びつけるものなのである〔p. 427〕。

結び

 [369-2] 以上で、宇宙の自然現象の一般的記述の結びとしたい。ここまで我々は、一部の既知の法則にしたがって自然現象を整理してきた。しかし、より神秘的な別の法則が、有機的世界のより高次の領域を支配している。そこには、様々な人種、その創造的な知的能力、そして諸言語が含まれる。知性の領域が始まるところで自然画は終わり、そして我々の目には新たな精神の世界が飛び込んでくる。自然画はここに境界線を引き、それをまたがない。

*1:「それはさておき、ブリンタニアに始めから住んでいた人が、はたして、生え抜きの人であったか、あるいは、よそからやってきた人であるかは、このような蕃族にあっては、当然予想されるように、はっきりわからない。住民の体つきはさまざまである。そこからして、いろいろの結論が引き出せるだろう。/つまり、カレドニアに住む人たちは、燃えるがごとき金髪と、大柄な四肢を持っているが、これは、彼らの起源がゲルマーニアであることを、強く主張している。シルレス族は、黒ずんだ顔をして、たいてい髪は捲毛であり、しかも、その対岸にヒスパーニアが位していることなどから判断すれば、その昔、ヒスパーニア人が、海峡を渡って行き、現在のシルレス族の居住地を占領したのではないかと、信じられる。また、ブリタンニアでガッリアにいちばん接近している地方の住民たちは、やはりガッリア人に似ている。これは、遺伝の因子が、ずっと続いているためであろうか。あるいは、おそらく、土地が向き合って突き出ているため、気候が似ていて、両者の体質にこうした特徴が賦与されたものであろう。」(国原訳(『世界古典文学全集 22』)、三二九頁)

*2:ドイツ語原文によった

*3:Caucasian、Mongolian、American、Ethiopian、Malayan

*4:Iranian、Turanian、American、Hottentots〔南アフリカの民族、現在のコイコイ人〕、Bushmen〔南アフリカの民族、現在のサン人〕、Negroes、Papuas、Alfourous〔オーストラリア先住民〕

*5:ドイツ語原文によった

*6:兄フンボルトの「人間の言語構造の相違と、人類の精神的展開に及ぼすその影響について」(「カヴィ語研究序説」)への参照がある。亀山訳の該当ページは、pp. 23–24、p. 60、pp. 269–70。